[付録] ニュースと感想 (117)

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● ニュースと感想  (2月24日)

 「賃金と生産性」について。
 格差拡大にともなって、経済学で、次の見解(嘘である)がけっこうひろがっているようだ。
 「賃金を上げるには、生産性を高めればいい」 …… (a)
 「生産性を高めるには、能力のある人が能力を発揮できるように、雇用の流動性(柔軟性)を高めればいい」 …… (b)
 こういう古典派の見解については、本サイトでも5年前にも否定しておいたのだが、今になってもぐちゃぐちゃと解説する経済学者が多く、素人はだまされるようだ。
 そこで、どこがどう間違っているか、説明しておこう。

 (1) 生産性の意味
 そもそも、これは「生産性」という概念をまったく理解していない。生産性というのは、直感的には、「一人が一日に靴をいくつ生産できるか」ということである。そこで、「一人が一日に靴を 10個つくっていたあと、11個つくるようになれば、生産性が1割アップする」という解釈が出る。
 しかしこの直感は、わかりやすいが、素人向けすぎる。現実には、これは正しくない。なぜかというと、ここでは「価格が不変ならば」という仮定があるからだ。あるとき急に何らかのブームが起こったり、天変地異が起こったり、戦争があったりして、その靴の人気が急に高まれば、同じ靴が高値で売れるようになる。そのせいで価格が5割アップすれば、生産性も5割アップする。まったく同じ靴を作っていても、市場の人気度だけで生産性が5割もアップするわけだ。
 こう考えると、スターの生産性がべらぼうに高いわけもわかる。ベッカムなどの生産性がメチャクチャに高いのは、彼らの成績が抜群によいからではなくて、単に市場で人気があるからにすぎない。人気が衰えれば、あっという間に生産性は低下する。
 ここまで見れば、明らかだろう。生産性というのは、「靴をいくつ作るか」ということではなく、「金をいくら稼ぐか」ということであるから、「賃金」と同義語なのだ。「賃金を上げるには生産性を高めればいい」というのは、「賃金を高めるには賃金を高めればいい」というのと同義である。トートロジーだ。何も言っていないのに等しい。
 ここで、生産性の定義に戻ろう。生産性の定義とは、「労働力1単位あたりの(物的な)生産量」ではなくて、「労働力1単位あたりの(金額的な)生産額」のことである。これが定義だ。とすれば、上記の結論は、当り前のことなのだ。
 「賃金を上げるには生産性を高めればいい」と主張する人々は、みんな嘘つきである。彼らは経済学のイロハも知らないエセ経済学者だ。
( ※ 余談だが、ベッカムが高い生産性を上げるのは、彼が人気者だからであり、そのわけは、彼がハンサムだからだ。だから、「生産性を上げればいい」という主張は、「ハンサムに生まれればいい」という主張になる。馬鹿げている。確かに、ハンサムに生まれれば金儲けができるが、そんなことを言うのは言うだけ無意味だ。自分の主張のバカらしさを理解した方がいい。)

 (2) ミクロとマクロ
 より根源的な話をする。こういうデタラメな主張をするのは、古典派経済学者ばかりであるが、彼らはミクロとマクロの区別がまったくできていない。ミクロとマクロの問題を混同しているのだ。
 ミクロ的になら、「賃金を上げるには生産性を高めればいい」というのは、曲がりなりにも成立する。ここでは、「1個あたりの価格は変わらない」という前提が成立するから、「労働力1単位あたりの(金額的な)生産額」を増やすことは、「労働力1単位あたりの(物的な)生産量」を増やすことに相当する。そこで、「賃金を高めるには、生産性を高めればいい」という結論が出る。
 一方、マクロ的には、このことは成立しない。マクロ的には、「労働力1単位あたりの(物的な)生産量」を増やす方法などはない。そもそも、原理的に不可能である。生産性の向上というのは、どんなときにも、年率で 2%から3%程度でしかない。それから大きく変動することはない。個別企業ならば、「その企業だけが生産性を高める」ことは可能だが、国全体ではそんなことは主張しても無意味である。
 それはいわば、「運動会で一等になるには、練習して頑張ればいい」というのが、一人には成立しても、全員には成立しない、というのと同様だ。一人が一等になることは可能だが、全員が一等になることは不可能だ。
 一人にとって成立することが、(必ずしも)全員にとって成立するとは言えない。……これがマクロ経済学の原理である。このことを理解しないのが、ミクロ経済学ばかりを考える古典派だ。
 日本経済で人々の賃金が低下しているのは、人々の頑張りが低いせいでもないし、一人一人の生産性が低下しているせいでもない。バブル期に比べれば、現代の生産性は、ずっと高い。それにもかかわらず、バブル期よりも貧しい人々がたくさんいる。この問題は、ミクロ経済学者の思うような、生産性の問題ではない。では、何か? 一人一人の努力や生産性が悪いのではなくて、国全体のマクロ的な総需要が縮小していることにある。人々は、靴を生産する能力が低下したのではなくて、靴を生産しても靴を買ってくれる消費者がいないから、貧しいのだ。
 一国全体の問題(政府の問題)を、一人一人の能力不足に期するのが、古典派だ。「おまえがバカだからおまえは貧しい。おまえがもっと利口になればいいのだ」と。とんでもないことだ。バカなのは、一人一人ではなくて、マクロ的な需要調整ができない政府である。そして、そのことを見抜けずに、「何でもかんでも個人の責任だ」と主張する経済学者もまた同罪である。

 (3) 経済成長率との関係
 生産性向上と成長率とは、どう関係するか? 
 古典派ならば、「比例する」と答えるだろう。生産性向上が3%ならば成長率も3%だ、というふうに。ここから、「IT化によって生産性を向上させれば、成長率も上がる」という結論が出る。
 では、現実にはどうか? 90年代の日本を見れば、こうわかる。
 「IT化が最も急激に進んだ 90年代こそ、成長率が最悪になった時期だった
 これが事実だ。ITなんかなかった 60年代〜80年代には、経済はどんどん成長したのに、IT化が急激に進んだ 90年代こそ、(バブル破裂にともなって)成長率が最悪になったのだ。2000年代の現状も同様である。
 では、正しくは? こうだ。
 「供給の面では、生産性の向上がどんどん進んだが、需要が縮小していたので、持てる能力を発揮できないままだった」
 つまり、能力の不足が問題なのではなく、能力を発揮する機会がないことが問題なのだ。一人一人の人間が劣悪なのではなく、一人一人の能力を発揮できるような社会的なシステムが整備されていないことが問題なのだ。そして、社会的なシステムというのは、何かたいそうなものではない。単に政府や経済学者に「需要を制御する」という概念(マクロ政策の概念)が欠けていた、ということだけが問題なのだ。( → 需要統御理論
 古典派の主張は、「需要が一定ならば」という仮定に基づくものだ。だが、仮定が成立しないのだから、その主張はしょせんは砂上の楼閣にすぎない。

 (4) 生産性向上の方法
 最後に、余談として、「生産性向上の方法」を示そう。
 生産性向上の方法は、何か? 経済学者はやたらと、「自由競争」とか「雇用の流動性(柔軟性)」とか「スキルアップ」とかを言う。しかし、そんなことで、急激に生産性が向上するはずがない。そもそも、それらのことは、「無駄を排除する」という効果があるだけで、「プラスを生み出す」という効果はほとんどない。
 市場原理というのは、「優勝劣敗」のことであり、「優者の割合が増えて、劣者の割合が減る」ということだ。それを通じて、全体的な生産性は向上する。しかし、優者において独自の技術が発明されるわけではない。市場原理は、あくまで、配分を調整するだけであり、個々の質を改善する効能はない。
 (政府のマクロ政策のかわりに)どうしても市場原理によって生産性向上をするなら、話は簡単だ。単に賃金をアップすればいい。優秀な企業が賃金をアップして、よそから従業員を招けば、その社では賃金アップと生産性向上が同時に達成される。(ただし企業の利益は減る。)
 一方、企業の利益を増やすには、生産性を低下させて、季節社員やアルバイトを増やせばいい。そうすれば、企業の生産性は低下するが、そのことで、賃金水準が下がるから、企業の利益は増える。……ここでは、金額的な生産性の低下(= 賃下げ)こそが、企業の業績改善のコツである。そして、現実はそうなっている。
 金額的な生産性を上げたければ、企業が賃上げをすればいい。しかし、それができない。とすれば、「生産性を上げよ」という方策は、もともと無意味なのだ。
 さらにまた、量的な生産性を上げるということは、個々の企業が必死に取り組んでいることだ。経済学者が「生産性を上げよ」と主張するのは、まったく無意味である。いわば、必死になって走っているマラソン走者に、「一位になるにはもっと能力を高めればいい」と告げるのと同様である。あるいは、受験生に向かって、「合格するにはもっと学力を上げればいい」と告げるのと同様である。そんなことを告げれば、「言われなくてもわかっている」と怒られるだけだろう。「あんたにはそのくらいのことしか言えないのか。幼稚園児並みの頭だな」とバカにされるだろう。

 結語
 「生産性を上げればいい」というのは、次の意味がある。
  ・ 各企業にとっては …… 量的には無意味。金額的には業績悪化。
  ・ 労働者にとっては …… 無意味。賃上げと同義だが、望んでも得られない。
  ・ 国全体にとっては …… 無意味。供給の問題ではなく、需要の問題。

 要するに、「生産性を上げればいい」というのは、まったく無意味な論議なのである。何も言っていないのに等しい。どちらかと言えば、逆効果があるかもしれない。
 現在の経済悪化は、靴を生産する能力が低下したのではなくて、靴を生産しても靴を買ってくれる消費者がいないからだ。バブル期に比べて、経済が質的に悪化したからではなくて、経済が量的に縮小したからだ。バブル期には、パソコンもなく、ワープロ専用機で仕事をしていた。生産性は今よりもずっと悪かった。それなのに人々はずっと幸福な生活を送れた。
 なぜか? 経済学者が「生産性を高めればいい」なんていう嘘をついて、人々をだますことがなかったからだ。だからこそ、低い生産性でも、十分に幸福な生活を送れた。どうして? 需要があったからだ。需要があれば、一人一人がまともな職場で働くことができる。そうすれば、IT技術を習得することもなしに、一人一人が自然に高い生産性を発揮できる。
 「生産性を高めるためにIT技術を習得せよ」なんて主張するエセ経済学者は、バブル期の日本の状況を見ればいいのだ。

 [ 付記1 ]
 本項の核心を、一言で言えば、こうだ。
 「一国経済の本質を見抜くには、ミクロ経済学ではなく、マクロ経済学によるべし。」
 「個の総和が全体になるわけじゃない。一人が努力すれば一人が勝つが、全員が努力しても全員が勝つわけじゃない。どんなに各人が努力しても、徒競走で全員が一等になることもなく、相撲で全員が白星になることもない。何でもかんでも各人の責任にするのは、国家の無能さを正当化するだけだ」
 これを一言で言えば、「古典派経済学者は嘘つきばかりだ」ということ。
 なお、嘘つきを見抜く方法を教えよう。上記のことからわかるように、「賃金を上げるには生産性を上げればいい」というふうに、「生産性」というものをやたらと持ち上げる人がいたら、その人はまさしく嘘つきである。「生産性」という言葉は、嘘つきを見抜くための道具としては、とても便利だ。
 たとえば、小泉や竹中がそうだ。彼らは「構造改革で生産性を上げよう」と主張して、結局、「生産性の向上」というラッパを吹くことしかしなかった。「生産性」という言葉を使った時点で、彼らは嘘つきだと判明する。

 [ 付記2 ]
 派遣労働者などの生産性を高めるには、どうしたらいいか? IT技術を習得すればいいか? 実は違う。彼らの賃金を単にアップすればいい。それには、労働組合を結成したりして、団交によって賃金水準をアップすればいい。労働組合の威力こそ、賃上げ(= 生産性アップ)のコツである。
 ただし、そうすると、その分、正社員の賃金は下がる。派遣社員の賃金(=生産性)は上がるが、正社員の賃金(=生産性)は下がる。労働者全体では変わらない。
 じゃ、労働者全体の賃金を上げるには? 正社員も含めて、労働者がそろって団交をして、会社全体の賃金を上げればいい。ただし、一社だけでやると、その企業がつぶれる。そこで、国全体で、ゼネストみたいな形で、一挙に賃上げをすればいい。そうすれば、マクロ的には、総所得と総需要が増加するので、景気は一挙に回復する。(→ 前出 「企業のいっせい賃上げ」)
 これが実現すれば、不況期における「コストアップインフレ」になり、デフレも不況もあっという間に吹っ飛ぶ。失業はあっという間に解消し、日本は再びバブル期のような好況になる。派遣社員は正社員として雇用されるようになるので、賃金の上昇にともなって生産性は急激に上昇する。
 では、なぜ、現実にはそうならないか? 労働組合の力が弱まっているからだ。そのせいで、労働者は派遣社員のような形に追いつめられる。企業は労働者の賃金をどんどん切り下げ、自社の利益を増やすが、そのことで、回り回って、一国全体の総需要が縮小して、景気が低迷する。……つまり、企業が自社の利益の最大化をめざすから、国家経済は低迷する。これは「合成の誤謬」だ。
 で、こういう「合成の誤謬」に気づかず、あくまで個の論理にとらわれているのが、古典派経済学者。「目がふしあな」と言ってもいい。自分で落とし穴を掘って、自分で穴に飛び込んでいるのに、なぜ自分が穴に落ちたのか、わからないでいるわけ。「最適のことをしたのに、なぜ穴に落ちたのだろう?」と。実は最適のことをしたからこそ穴に落ちたのだ、ということがわかっていないのだ。
 そのわけ:二人の人間AとBが、自己の利益の最大化を狙って、相手の前に穴を掘った。Aの掘った穴にBが落ち、Bの掘った穴にAが落ちる。自己の利益の最大化を狙った結果、総和は最大にならずに最小になる。(企業は自己の利益を狙って労働者の富を奪い[=賃下げ]、労働者は自己の利益を狙って企業の富を奪う[=安いものしか買わない]。たがいに相手の富を減らしあって、最小化。それが「縮小均衡」だ。……こういうのが、マクロ経済学の理解。)

 [ 付記3 ]
 ではなぜ、間違いだらけの古典派経済学がのさばり、まともなマクロ経済学は主流にはならないのか? それは、古典派経済学者が、学界を牛耳っているからである。一種の談合(カルテル・ギルド)だ。
 談合に加わっていれば、全員が安泰である。一方、異端の優秀なものが入ってくると、全員が敗者となる。だから、全員で結託して、異端の優秀なものを排除する。これが談合の原理。
 この世では、市場原理ですべて片付く、ということはない。その典型的な見本が、経済学者の世界だ。そこでは、市場原理は働かず、談合の原理だけが働く。彼らは競争によって負けることを拒むので、競争自体を排除するのだ。それならば絶対に負けないからだ。
 その例。「古典派経済学は否定されているが、それに変わるものが現れていない」という主張。バカじゃないの? マクロ経済学も知らないのだろうか。総需要管理とか、減税とか、いろいろな方策が知られているのに、そういうものを一切無視して、朝から晩まで「市場競争の貫徹」とばかり唱える。彼らは、学問の世界では、ライバルを排除し、競争をなくす。それこそが(劣悪な)自己の安泰を保つ方策だからだ。
 ちなみに、日銀の政策決定の場でも、そこにはマネタリズムとサプライサイドの人がいるだけで、ケインズ系の人もいないし、マクロ経済学者もいない。(エセ・マクロ経済学者 = マネタリスト ならばいるが。彼らはマクロ経済学者ではないので、間違えないように。彼らはマクロ現象を論じるミクロ主義者である。)
 余談だが、「生産性の向上で経済成長」と唱える人々は、サプライサイドと呼ばれる。経済学の世界では、まともな経済理論とは見なさされない立場であり、バカにされることが多い。しかしながら、その理論の欠落が、単純さ(ほとんどワン・センテンスで説明できる)として歓迎され、保守的な政治家の間では受けがいい。したがって、権力的には、最大の権力を持つ。たとえば、小泉純一郎・竹中平蔵などだ。
 一方、マネタリストは、日銀に牙城を築いている。
 で、この両者は、ちょっと見ると仲が悪いように見えるが、しょせんは古典派の枠内にあるので、同じ穴のムジナにすぎない。普段は仲が悪いように見えるが、ときどきケインズ派やマクロ経済学者が異を立てると、一致団結して、「市場原理」を唱えて、「労働組合の弾圧と企業利益の拡大こそ、最善の策だ」と主張する。ま、どちらにしても、経団連の飼い犬です。


● ニュースと感想  (2月25日)

 「前日分への補足」について。
 前日分についての補足をしておく。生産性の向上については、次のツッコミが来そうなので。
 「従業員の賃金を上げたって、それで生産性が向上するわけではない」
 なるほど、それはその通り。だが、そんなのは、当り前のことだ。当り前のことをいちいち言わないでほしいですね。
 前項で述べたのは、「従業員の賃金を上げると、それで生産性が向上する」ということを、個別企業について述べているのではない。では何を述べているのかというと、一国全体について述べている。すなわち、こうだ。
 「国全体で従業員の賃金を上げると、それによって景気が回復するので、国全体で生産性が向上する。それにともなって、特に、生産性の低い低賃金労働者は、高賃金労働者(正社員)に転じることで、生産性が大幅に向上する」
 具体的に言おう。派遣社員で、正社員と同様の仕事をしている人はたくさんいる。たとえば、国会で証言したキヤノンの社員だ。他社にもたくさんいるだろう。こういう人が生産性を上げるには、どうすればいいか? この人だけが正社員になっても、何も変わらない。企業が生産できるものは、何も変わらない。単に労働コストがアップするだけだ。この人だけについて言えば、賃金を上げても生産性はまったく向上しない。しかし、である。国中で同様のことをすれば、国中で景気がよくなる。すると、キヤノンは、自社の社員の賃金が上がったことによってではなく、国中の社員の賃金が上がったことによって、自社の商品を多く高く売ることができるようになる。自社の賃上げは、コストアップをもたらすだけだが、社会全体の賃上げは、総需要の増加をもたらして景気回復をもたらす。
 これがマクロ的な発想だ。ここでは、賃上げとは、自社の労賃のコストアップだけでなく、社会全体の総所得の増加をも意味するのだ。
 そして、そういうことができないで、「賃上げはコストアップだ」と主張するだけなのが、古典派経済学者であり、トヨタやキヤノンなどの企業経営者だ。彼らは、賃金のミクロ的な面を見るだけで、マクロ的な面を見ることができない。「総所得と総需要」という関係を見ることができない。── こういうマクロ的な認識の欠落が、現在の景気低迷をもたらす。一つ一つの企業が自社にとって最善のこと(賃下げ)をめざすことで、国中の企業が社会全体にとって最悪のこと(総需要の縮小)をめざす。合成の誤謬。


● ニュースと感想  (2月25日b)

 「景気と労働組合」について。
 前項(本日別項)や、前日分と関連するが、不況の原因の一つは、労働組合の弱体化だ。
 景気を回復するには、減税をすればいいが、そうでなくても、企業がいっせいに賃上げをするのでもいい。しかし、やれといっても企業はやりたがらない。だったら、労働組合ガスとをすればいいのだ。そうすれば、景気は回復する。
 もちろん、一社だけでストをやれば、その企業だけが倒産しかねない。しかし、全企業がいっせいにやれば、どの企業も不利にならない。で、どうなるか? ただの物価上昇(コストアップインフレ)が起こる。で、これは、減税と同じ効果がある。
 だから、景気を回復するには、ストをすればいいのだ。国中で。しかし、そうしない。なぜ? 労働組合が弱体化しているからだ。あげく、派遣社員が増えたりして、若者はひどい目に遭っている。
 今の若者は、孤立化が進んで、オタク化が進んでいる。こういう状態では、労働組合が弱体化するのは、当然かもしれない。そして、その当然の結果として、若者たちはひどい労働環境に甘んじているのである。
 若者は中高年を見て、「彼らは正社員で羨ましい。自分たちは不利だ」などと憤っている。しかしそれは、彼らが労働組合を結成しないからなのだ。
 現代の中高年がまともな生活を送れるのは、彼らが労働組合を結成したからだ。だから、たとえばコストアップインフレの形で、高めの物価上昇が起こったりしたこともあったが、不況にはならなかった。若干のインフレになったことはあったが、不況にはならなかった。(石油ショック字の問題は外的要因によるスタグフレーションだから話は別である。)
 ともかく、若者がひどい目に遭っているのは、自業自得というものだ。ITかが進むに連れて、コンピュータとばかり付き合うようになって、仲間と付き合うのを疎んじるようになった。労働者は分断された。そこを、経営者に付け込まれた。
 マルクスは言った。「万国の労働者よ、団結せよ」
 経営者はめざした。「国中の労働者を、分断せよ」
 マルクス主義が優勢だったころには、極貧の労働者(炭鉱労働者は女工哀史などが有名)は、しだいに人並みの生活ができるようになっていった。労働者は 19世紀ふうの最悪の状況を脱するようになっていった。それに応じられない産業は、どんどん衰退することで、自動的に産業構造が変化していった。かくて、国中の生産性が向上していった。
 古典派経済学が優勢な現状では、若者はどんどん極貧の労働者(派遣やアルバイト)になっていく。労働者は19世紀のように、最悪の状況に戻るようになっていく。ひどい低賃金とひどい低金利により、愚劣な生産性しか上げられない企業も、うまく生き延びていられるようになった。(マイナスの金利が主張されていたころには、マイナスの生産性の企業さえも許容された。)
 
 好況期は別として、不況期に関する限りは、生産性の向上をもたらすのは、自由競争やIT技術なんかよりも、労働組合の強化だ。それさえあれば、総所得や総需要の増加によって、景気状況を改善する。

  【 追記 】
 「賃金アップにより、コストアップインフレでデフレを解消できる」
 と上では述べた。一方、現状は、その逆である。つまり、
 「賃金ダウンにより、コストダウンデフレでデフレが深まる」
 というふうになっている。
 インフレ期には「コストアップインフレが起こるから、賃上げはけしからん」と経団連は述べる。その言い分が正しいのであれば、デフレ期には「コストアップインフレが起こるから、賃上げはよろしい」と述べるべきだし、「コストダウンデフレが起こるから、賃下げ(派遣を含む)はけしからん」と述べるべきだ。しかし、そうしない。ご都合主義。二枚舌なんですよね。ま、古典派経済学者からして、同様だが。
 なお、古典派の大好きな「均衡」という言葉を使って説明すると、次のようになる。
 「労働者側の力と、企業側の力とは、うまく均衡している必要がある。一方が強くなると、均衡が破れて、状況が悪化する。」
 例1。労働者側の力が強すぎると、コストアップインフレになり、インフレが起こる。
 例2。労働者側の力が弱すぎると、コストダウンデフレになり、デフレが起こる。
 現状がどちらかは、わかりますね? で、「もっと企業の力を強めよ」と主張すると、どうなるかもわかりますね? 


● ニュースと感想  (2月26日)

 「ミクロとマクロの生産性」について。
 古典派経済学者は、生産性について勘違いをしている。ではなぜ、彼らはどこをどう勘違いしているのか? その根幹は、次のことにある。
 「ミクロの生産性と、マクロの生産性とを、混同している。
 換言すれば、こうだ。
 「個々の企業の生産性を上げることと、一国全体の生産性を上げることとを、混同している。
 古典派経済学者は一般に、「個の総和が全体だ」と考える。それを生産性にも当てはめて、「個々の企業が生産性を上げることで、一国全体の生産性が上がる」と考える。── ここに、根源的な勘違いがある。(要するに、マクロ経済学音痴である。)
 実際には? 個々の企業の生産性を上げることと、一国全体の生産性を上げることとは、まったく別である。「個々の企業が生産性を上げることで、一国全体の生産性が上がる」ということは、成立しない。
 正確に言えば、そのことは、好況期には成立するが、不況期には成立しない。では、不況期には? 逆のことが成立する。つまり、「個々の企業が生産性を上げることで、一国全体の生産性が下がる」というふうになる。これは、合成の誤謬でもある。
 古典派経済学者の愚かなところは、合成の誤謬を理解できないことだ。そういう現象があることも理解できないし、なぜ起こるかも理解できない。だから能天気に、「個々の企業が生産性を上げることで、一国全体の生産性が上がる」と考える。そのあげく、企業はコストダウンのために賃下げを進めて、一国全体の状況が悪化する。(生産性はどんどん低下する。換言すれば、途上国に近づく。なぜ? 低賃金の途上国こそ有利だと考えて、どんどん賃下げするからだ。途上国の状態をめざして行動するのだから、途上国のように生産性が低下するのは当然だ。)

 ──

 上記は要旨ないし概論である。ただし、これでは話が抽象的すぎるので、現実に即して説明しよう。
 今、キヤノンに派遣労働者がいて、正社員と同等の仕事をして、給料を正社員の半分しかもらえずにいるとする。(これは新聞で報道された事実。)この場合、どうすれば派遣社員は望み通り、正社員と同等の給与をもらえるか? 
 古典派経済学者ならば、「派遣社員が生産性を上げればいい」と主張するだろう。しかし、派遣社員は正社員と同等の仕事をしているのだから、これ以上は生産性を上げることは無理だ。派遣社員が正社員の2倍の生産性を上げることなど、無理に決まっている。そもそも、「派遣社員は正社員の2倍の生産性を上げよ」なんて主張すること自体、馬鹿げている。
 マクロ経済学者ならば、「単に派遣社員の所得を上げよ」とだけ主張する。生産性を上げることなどまったく必要ない。単に給与を二倍払うだけでいいのだ。それだけで済む。ただし、ここで、重要な条件がある。キヤノンだけ(一社だけ)で給与を二倍にするのでは無効だ。かわりに、日本中で派遣社員の給与を二倍にする(つまり正社員として雇用する)ようにすればいい。ここでは、「一社だけでなく全部そろって」という点がポイントだ。この条件が絶対に必要不可欠だ。
 この条件が満たされない場合と満たされた場合を比較しよう。

 (1) 一社だけ
 たとえば、キヤノン一社だけで給与を二倍にするとしよう。すると、キヤノンの労働コストが上がるだけだから、キヤノンが大損するだけだ。状況は何も好転しない。労働者は得をするが、会社は損をする。損得の配分は変更されるが、総和は何も変わらない。全体としての状況は何も変わらない。(比喩的に言えば、一家のなかで、妻が飢えて夫が満腹していた状態から、妻が満腹して夫が飢える状態になるだけだ。配分が変わるだけで、全体状況は何も変わらない。)
 現状は、これである。会社が得をして、労働者が損をする。その状況で、損得を逆転させても、何も変わらない。
 これがつまりは、「一社だけの賃上げ」である。
(ここでは、古典派経済学者の説は成立する。状況を好転するには、生産性を上げるしかない。しかし、それはそもそも、無理である。「お金持ちになるには、金が空から降ってくるしかない」と言っているのと同じ。)

 (2) 全社そろって
 たとえば、(キヤノン一社だけでなく)日本中の全社で給与を二倍にするとしよう。すると、どうなるか? キヤノンの労働コストは上がるが、同時に、労働者の所得が上がるから、キヤノンの売上げが大幅に増加する。需要の増加にともなって、生産の増加が必要になる。その増加は、現状の社員だけでは足りないから、新たに労働者を雇用する必要がある。しかし、日本中で労働者が雇用されたら、労働者不足になり、労働コストが上昇する。それでも需要があるから、高い賃金を払っても、新規に労働者を雇用することができる。それを見て、派遣社員はさっさと派遣をやめて、キヤノンの正社員として雇用してもらう。
 この場合、派遣社員は正社員になるから、賃金が上昇する。つまり、生産性が向上する。
 こうして、日本中の全企業がいっせいに賃上げすることで、賃金が急上昇し、生産性も急上昇する。

 結論。
 以上のことを本質的に理解するには、次のように比較するといい。
 ここで、Aはずっと正社員。Bは、不況期には派遣社員で、好況期には正社員。
  1.  不況期
  2.  好況期
 Aは正社員で、不況期も好況期も何も変わらない。労働量も賃金も変わらない。生産性も変わらない。
 Bは、不況期には派遣社員で、好況期には正社員だ。不況期には賃金が5で、生産も5だ。好況期には賃金が10で、生産も10だ。つまり、好況期には賃金倍増にともなって、生産性が2倍になったわけだ。
 具体的に見よう。不況期には、キヤノンの派遣社員は低所得だから、生きるだけで精一杯で、デジカメを買うことができない。日本中の派遣社員が同様だから、キヤノンのデジカメも売れない。一方、好況期には、キヤノンの派遣社員は正社員になって高所得だから、生きること以外に余裕があり、デジカメを買うことができる。日本中の元・派遣社員が同様だから、キヤノンのデジカメもどんどん売れる。

 どうしてこういうことが起こるのか? その本質は、次のことだ。
 「キヤノンの労働者の賃金は、キヤノンにとっては労働コストにすぎないが、日本中の企業にとっては総所得増加(= 総需要増加)の効果がある」
 つまり、キヤノンの労働者の賃金を上げるのは、キヤノンのためではなく、キヤノン以外の(日本中の)企業のためである。キヤノンの労働者の賃金を上げると、キヤノンはちっとも得をしないが、キヤノン以外の(日本中の)企業にとっては(総需要増加によって)売上げが増えるので、とてもありがたい。
 そして、このことは、キヤノン一社がやるのであれば、キヤノン一社が損をするだけだが、日本中の企業がそろってやれば、全員が得をする。つまり、それぞれの一社がやるのであれば、それぞれの一社が損をするだけだが、日本中の企業がそろってやれば、全員が得をする。(全体利益を得る。)

 比喩的に言おう。溜池を構築するとき、各人が自分のエゴを貫いて労務をサボると、各人は労務の損を免れるが、溜池を作ることができない。一方、各人が自分のエゴを抑えて労務を提供すると、各人は労務の損をこうむるが、溜池を作ることができる。そして、溜池を作ることができれば、小さな労務をはるかに上回る全体的な利益を得ることができる。(共同作業の利益。)
 各人が溜池のために労務を提供するのは、自分の利益のためではなくて、全体の利益のためである。そういうことは、自分一人がやるのであれば、ただの損にすぎない。(たとえば、一人だけが溜池を作ろうとしても、溜池が完成することはないので、骨折り損のくたびれもうけである。)ただし、一人でなく全員でやれば、全員が(損をするどころか)得をする。マイナスの総和は、巨大なマイナスではなく、巨大なプラスとなる。
 ここでは、「各人のエゴが全体状況を改善する」という市場原理(神の見えざる手)は成立しない。逆に、合成の誤謬が成立する。(つまり、各人のエゴは全体を悪化させる。一方、各人の自己犠牲は全体を改善する。)

 ミクロの原理とマクロの原理はまったく異なる。個々の総和が全体になる、ということはない。全体の損得については、マクロの原理が成立し、ミクロの原理は成立しない。
 このことを理解するのがマクロ経済学者であり、このことを理解しないのが古典派経済学者である。
 結局、一国全体の状況を考えるには、マクロ的な認識が欠かせない。一国全体で生産性の向上が必要なときに、個別企業に「一人一人が頑張ればいい」なんて考えているようでは、全体的な理解ができていない。仮にそんなことが成立するのであれば、すべてを各社に任せればいいのであって、政府は必要ないし、また、経済学自体も必要ない。「市場原理ですべてOK」なんて主張している経済学者は、「経済学者は必要ない」と主張しているだけだ。


● ニュースと感想  (2月27日)

 「ミクロの生産性とマクロの生産性」について。
 ミクロの生産性と、マクロの生産性とは、まったく異なる。このことをはっきりと理解できるように、典型的な例で説明しよう。
 景気が悪化して、大量の在庫が発生したとする。キヤノンのデジカメが大量に売れ残ったとする。ここで、キヤノンはどうするべきか? 

 (1) リストラ
 まず、リストラだ。つまり、社員を解雇して、操業度を低下させる。この場合、固定コストはそのままだが、労務費の総額が低下するので、損失を最小限に収めることができる。(赤字の垂れ流しをしない。)
 後ろ向きの経営とはいえ、これが不況期には(企業にとって)ベストだろう。だからたいていの企業は、景気が悪化するとリストラをする。
 ただし、企業にとってはベストであるが、労働者にとっては(失業するので)最悪である。それが現状だ。

 (2) 生産性の向上
 そこで、生産性の向上という案が出る。生産性の向上があると、どうなるか? 社員一人が生産する台数が増える。今までは一時間に 10台を生産していたのに、今度は1時間に11台を生産する。こうして生産性は1割上昇した。では、そのことで、キヤノンは儲かるか?
 好況期ならば、11台がすべて売れるので、儲かるだろう。
 一方、不況期には? もともと売れ残りが出ていた。10台生産しても、9台しか売れなかった。そこで11台を生産したら、売れ残りがますます増える。以前は売れ残りは1台だったのに、今度は売れ残りが2台だ。(こういうことは「需給ギャップの発生」「不均衡」という用語で理解できる。)
 売れ残りが出ると、どうなるか? 労働者の賃金の分どころか、原材料費の分が丸損する。利益が2割低下するのではなくて、莫大な損失が発生する。
 結局、こう言える。
 「不況期(需要不足のとき)には、生産性の向上があると、企業は莫大な損をする」

 (3) 逆効果の理由
 では、なぜ、そういうことが起こるのだろうか? 生産性の向上によって損失が発生するというのは、直感に反する。なぜそんなことが起こるのか? その理由は、こうだ。
 「供給過剰のときには、供給を増やせば増やすほどかえって損をする」
 供給を増やすことが改善をもたらすのは、需要が十分あるときに限られる。需要が十分にあれば、供給は需要に呑み込まれるので、状況は改善する。しかし、需要が不足しているときには、供給過剰という状況であり、その状況で、(生産性の向上によって)供給を増やせば、状況は改善するどころか悪化する。
 比喩的に言えば、こうだ。
 「キャベツが大豊作のときには、人々はキャベツを食べきれない。その状況でキャベツを増やせば増やすほど、市場価格は暴落して、生産者は大赤字を出す。何もしなければキャベツは畑で腐るだけだが、無理に出荷すると運賃さえもまかなえないので大赤字を出す」
 「デジカメでも自動車でも同様だ。たとえば自動車ならば、家庭に一台か二台あれば足りる。家庭に運転者が一人しかいない家では、車を二台も三台も買うはずがない。なのに、過剰な自動車を生産しても、売れなくなるので、価格が暴落して、大損をするだけだ。供給を増やせば増やすほど、状況は悪化する」
 「人が食べる食事の量は限られている。そこへ過剰な食事を出して、タダだからお食べなさいと言って供給しても、食べられる食事の量は限られている。供給を増やせば無制限に食事を食べられるわけではない。(無理に食事を詰め込まれたらフォアグラのガチョウみたいなありさまになる。あげくは腹から押し出された食事が口からはみ出て窒息死する)」
 繰り返す。供給過剰のときには、供給を増やすことは状況を悪化させる。供給過剰のときには、需要を増やすことが先決であり、供給を改善しても無効かつ有害なのだ。
( ※ これを理解するのは簡単ですね? なのにこれを理解できない人を、「サプライサイド」と呼ぶ。彼らは何でもかんでも、供給側[サプライサイド]で物事を決めたがる。で、彼らがバカのひとつ覚えのように口にする言葉が、「生産性の向上」だ。彼らはどうせなら、キャベツをつぶしている農家の前で、その言葉を発すればいいのだ。そうそう。新聞記事によると、この春には牛乳が余剰で廃棄されることになるらしいという。ここで、生産性の向上をして、ますます牛乳を大量に生産するとどうなるか? よく考えてみるといい。)

 (4) ミクロとマクロ
 すぐ前の (3) のポイントは、次のことだ。
 「一社だけであれば、(生産性の向上による)供給の増加は、有効である。自社だけが供給を増加させても(≒ 生産性の向上をしても)、市場全体での供給が大幅に増えるわけではないからだ。しかし、全企業がそろって同様のことをすれば、市場全体での供給が大幅に増える。
 つまり、一社だけで生産性の向上があれば、生産性の向上は有効だが、全企業でそろって生産性の向上があれば、生産性の向上は無効かつ逆効果である。(供給過剰で価格が暴落するので。)
 ここでは、生産性の向上の意味が、ミクロとマクロとでは異なっているのだ。(このことは前にも述べた。)

 (5) 企業の損得
 以上のことから、企業の損得については、次のように結論できる。
 不況期には、生産性の向上があると、生産台数が余剰になる。そのせいで、企業は損をする。だから、企業はあえて生産性を低下させる。生産性を低下させて、生産台数を減らせば、赤字を最小限に収めることができるからだ。
 つまり、不況期に生産性が低下するのは、技術水準が以前よりも悪化した(たとえば機械の性能や人間の能力が低下した)からではなくて、生産性が低下する方が得だから(赤字が減るから)、あえて生産性を低下させているのだ。生産性の低下は、わざとやっているものであり、意図的なものなのだ。
 では、なぜそんなことになるかというと、生産性を高めて生産量を増やしても、売れ残りが出るからだ。つまり、需要不足という根源があるからだ。
 というわけで、こう言える。
 「生産性が低いから賃金が低いのではなく、需要が足りないから生産性が低い」
 ここで、総需要と総所得が等しいということを理解すれば、こうなる。
 「生産性が低いから賃金が低いのではなく、賃金が低いから生産性が低い」
 こうして、真相がわかった。生産性と賃金の関係については、古典派は因果関係を逆に理解している。「生産性が低い → 賃金が低い」という因果関係があるのではない。逆に、「賃金が低い → 生産性が低い」という因果関係があるのだ。
 そして、そのことは、「需要不足」(= 需給ギャップ ≒ 不均衡)という概念で理解できる。逆に言えば、この概念を持たない古典派経済学者には、因果関係を正しく理解することができない。彼らの主張を信じれば、生産性を向上させて、そのあげく、巨大な売れ残り(在庫の山)を構築して、状況を悪化させるだけだ。いわば、キャベツの豊作貧乏のように。

 [ 付記1 ]
 「不況期(需要不足のとき)には、生産性の向上があると、企業は莫大な損をする」
 と上で述べたが、ただし、必ずそうなるというわけじゃないので、注意。あくまで原則としての話だ。
 細かく言えば、それが成立するには、「生産状況が継続する」という条件が付く。つまり「労働者を解雇しないで、機械も稼働するならば」という条件が付く。
 このことから逆に、企業のリストラは当然だとわかる。リストラは、企業にとっては選択の余地がない。マクロ的にはまずいことだが。……これは合成の誤謬という状態。

 [ 付記2 ]
 最近、ネット上で生産性の向上をめぐる論争があるようだが、この論争については、ここでは論じない。そういう論争とは全然別の点から、話を論じている。
 要するに、サプライサイドとマネタリズムの論争(ミクロの土俵での論争)があったなら、その論争(ミクロ的な論争)には関わる気はなく、それとは別の視点から、彼らの土俵そのものをひっくり返す。
 要するに、狐と狸が化かし合いをしているときに、「どっちが正しいか」と論じるつもりはない。ま、どっちかが正しくて、どっちかが間違っているのかもしれない。しかしそれは、彼らの土俵における勝負にすぎない。しょせん、狐や狸は嘘つきなのだから、彼らがどのくらい真実を語っていることかなど、意味はない。「どっちがより多くの真実を含むか」ということで嘘つき同士が論争しても、私にはあまり興味はない。
 「狐と狸はどっちも同じ穴のムジナじゃないか。しょせんコップのなかの嵐にすぎないじゃないか」というのが私の立場。
 なお、私は原則として、(政府権力者を除いて)個人を批判することはない。今回のシリーズ(生産性の向上について)では、古典派経済学者を批判しているが、特定の誰か(イニシアルで示せるような誰か)を批判しているわけではなく、日本中もしくは世界中の古典派経済学者全般を批判している。つまり、経済学者の大多数(9割以上?)を批判している。
 ついでに言えば、別の点からはケインズ派の経済学者(好況事業という無駄遣いを推進する人々)をも批判しているから、ほとんどすべての経済学者を批判していることになる。批判していないのは、「減税」を主張し、かつ、古典派ではない人たちだけ。そういう人を探すのは、砂浜でダイヤを探すように、非常に困難だ。
( ※ ただの減税なら、レーガノミックスがある。ブッシュもね。アベノミックスもそうですね。企業減税、というやつ。こんなのをやる奴は、企業の飼い犬としか思えない。なぜ? 総需要を増やすということを考えず、単に国の金を奪ってやろうと考えているだけだから。要するに、脱税の合法化です。)
( ※ なお、「限界生産性」という用語の解説は、翌日分で詳しく説明する。)

 [ 参考 ]
 本項とは関係ないが、二日前の分に、追記を少し加筆しました。
   → 該当箇所  (賃上げをするべきだという話。)


● ニュースと感想  (2月28日)

 「限界生産性という用語」について。
 ミクロの話については、教科書通りのことで済むので、私としては特に言及をしないつもりだった。ところが、古典派の経済学者でも、ミクロの概念をよく理解できていない人が多すぎる。そこで、彼らの経済音痴を正すために、ミクロのお勉強をすることにしておこう。(間違いを修正して上げるわけ。マクロ経済学の立場から。)

 まず、「限界〜」という用語がある。これらが具体的に何を意味するかは、経済学の教科書に書いてあるから、それを読んでほしい。数学的に言えば、「増分の比率」のことだが、直感的には「微分」のことだと言えばわかりやすいだろう。(ただし人間のような数は、連続的ではなく離散的だから、数学的な意味での微分にはならない。そこで「増分の比率」というような言葉を使う。数式で言うと 「 dy/dx 」のかわりに「 Δy/Δdx 」を使う。)

 さて。この「限界〜」という概念を、賃金や生産性に当てはめてみよう。ここで、ちょっとネット上をぶらつくと、次のような二つの見解が散見される。
  ・ 限界賃金は限界生産性に従って決まる。
  ・ 平均賃金は平均生産性に従って決まる。
 この二つのうち、どちらが正しいか? そんなのは、定義しだいだが、普通の定義をすれば、どっちも正しそうだ(そう見える。ちょっと見ただけでは)。
 では、本当にそうか? それが問題だ。

 (1)
 よく見れば、次のことは完全に間違いだ。
  ・ 平均賃金は限界生産性に従って決まる。
  ・ 限界賃金は平均生産性に従って決まる。
 当然ながら、次のことは無意味。
  ・ 賃金は限界生産性に従って決まる。
  ・ 賃金は平均生産性に従って決まる。
 また、次のことも無意味だ。
  ・ 平均賃金は生産性に従って決まる。
  ・ 限界賃金は生産性に従って決まる。
 なぜ無意味かは、わかりますね? ここで言う(ただの)賃金ないし生産性は、「限界〜/平均〜」のどちらであるか明示されていないからだ。つまり、用語が指定されていないからだ。
 通常の場合は、両者を特に区別しなくても、そのどちらか一方であることが含意されている。(いちいち書かないだけだ。)ただし、通常の場合はともかく、「限界〜/平均〜」の両者を区別しているときには、どちらであるかを明示する必要がある。明示しないと、議論が無意味になる。
 こういう議論は、「不毛」である。つまり、生産性がゼロ。

 (2)
 では、「限界〜/平均〜」の両者を区別したなら、どうか? その場合には、意味がある。では、どちらが正しいか? 好況の場合には、正しいものがある。それはミクロ経済学の教科書に書いてあるとおり。
 しかるに、実際には、どちらも間違いだ。特に、不況下の現実では。
 なぜか? その理由は、先に説明した。限界生産性であろうと、平均生産性であろうと、「生産性が上昇すると賃金が上がる」ということは成立しない。むしろ、「生産性が上昇すると賃金が下がる」ということが成立する。(不況下では。)
 ともあれ、先日も述べたように、賃金の説明を生産性で語ることは、とんでもない勘違いである。換言すれば、賃金の説明を市場原理で説明することは、とんでもない勘違いである。なぜなら不況下では、市場原理がまともに成立しないからだ。需給の不均衡が成立するときには、均衡の原理が成立しないからだ。
 「均衡の原理(市場原理)が成立すれば、これこれとなります」
 と語る古典派の主張は、その前提が満たされないがゆえに、すべては砂上の楼閣となる。
( ※ その前提が満たされるか否かを考えるのが、マクロ経済学。前提が満たされるならば、古典派経済学は正しいが、前提が満たされなければ、あとは無意味。)

 (3)
 さらに、細かな話をしておく。マクロ経済学でなく、ミクロ経済学の話。
 「限界〜」という用語を使うとき、その用語が適用されるのは、特定の生産現場(職場)に限られる。たとえば、コンビニ店員であれば、「セブンイレブンの××店の店員」というふうに極度に限定される。
 その該当の職場に限っては、「限界賃金」も「限界生産性」も成立する。つまり、「限界生産性がこれこれだから、限界賃金はこれこれになる」という議論が成立する。しかし、その該当の職場からはずれれば、「限界賃金」も「限界生産性」も意味を失う。セブンイレブンのA店における「限界賃金」と「限界生産性」は、B店では成立しない。もちろん、ミニストップの店でも成立しない。まして、高島屋や三越の店には成立しない。当然ながら、トヨタの工員(別会社の別職場の労働者)にも成立しない。
 したがって、「限界賃金」や「限界生産性」は、非常に狭い職場では意味をもつが、より広く「会社全体」とか「日本全体」とかには成立しない。当然ながら、マクロ的には成立しない。つまり、日本全体について、「限界生産性を1%上げると、限界所得(限界賃金)も1%上がる」というような議論は成立しない。「限界〜」という用語を使うとき、その用語が適用されるのは、特定の生産現場(職場)に限られるのだ。
( ※ 具体的に言おう。特定の一社では、景気悪化の場面において、社内に余剰労働力を蓄えている。この場合、生産性を上げるには余剰労働力を解雇すればいい。どうせ同じ売上げしかないのであれば、社員を半減すれば、生産性は倍増する。というわけで、生産性を高めるには、どんどん解雇すればい。しかしながら、国全体を見ると、いくら労働者を解雇しても、労働者の賃金は上がらない。むしろ、派遣社員が増えて、労働者の賃金は低下する。つまり、国全体では、生産性が上昇するほど、賃金は低下する。一国全体を見ると、そういうことがあるのだ。というわけで、マクロ的には、「限界賃金」や「限界生産性」はまったく無意味である。)

 結論。
 前にも述べたが、マクロの問題に「生産性」というのを考えるのは、無意味である。マクロの問題に「生産性」という言葉を使う時点で、その人はエセ経済学者であるとわかる。
 生産性という言葉が意味ともつのは、ミクロの問題に限られる。たとえば、次のように。
 こういうのは、まあ、意味がある。そこで、「××よりも○○の方が生産性が高い。××は○○を見習うべきだ」という議論が成立する。
 しかし国全体については、次の主張は成立しない。
 「日本の労働者を見ると、80年代よりも 90年代の方が生産性が低い。だから労働者が失業するんだ。90年代の労働者は、80年代の労働者を見習うべきだ。80年代の労働者の方がIT技術が優れていたはずだ」
 これはメチャクチャな主張である。つまり、マクロ的には、生産性という概念で経済を説明するのは、まったく無意味なのだ。当然ながら、「景気を良くするには生産性を高めればいい」ということも成立しない。
 ただし、超長期的には、「生産性の向上が労働者を豊かにする」というふうには、言えそうだ。この件は、話が違うので、あとで別項で述べる。

 [ 付記1 ]
 蛇足ふうに解説しておく。マクロというよりはミクロ経済学の話になるが。

 次の二つの命題は、真か偽か? 
 (i)「賃金水準は、絶対的な生産性で決まるのではなく、その社会の平均的な生産性で決まる。」
 (ii)「賃金水準は、その社会の平均生産性で決まるのではなく、限界生産性で決まる。」

 実は、この二つの命題は、どちらも無意味だ。経済学の用語になっていない。
 そもそも、ここでいう生産性は、賃金水準と同様だから、「賃金水準は賃金水準で決まる」と言っているにすぎない。で、その「賃金水準」が、「限界所得」か「平均所得か」で区別されるが、言いたいことを( 《 》 で補足して)書き換えれば、次のようになる。
 (I)「《 平均 》所得は、絶対的な生産量で決まるのではなく、その社会の平均所得で決まる。」
 (II)「《 限界 》所得は、その社会の平均所得で決まるのではなく、限界所得で決まる。」
 どっちも、ただのトートロジーを言っているにすぎない。真か偽かと言えば、どちらも真であるが、どちらも無意味である。単に「AはAだ」と述べているだけだ。馬鹿馬鹿しくて、論議にならない。主張者たちは、「真実を述べている」と言うつもりなのだろうが、実はまったく内容空虚で、何も言っていないに等しい。
 そもそも、マクロ的な意味での「生産性」なんてものを考えている時点で、中身が空っぽである。(2月26日〜27日の項を参照。)

 それでも、言わんとしているところは何かを汲み取って、経済学の用語に書き換えてみよう。次のような命題ができる。
 「サービス業の労働者の賃金水準は、サービス業の労働者の能力そのもので決まるのか、工業労働者の能力で決まるのか?」
 これは、二つの意味で理解される。
 (a)「平価水準(為替レート)は、貿易産業の力量で決まるだけか?」
 (b)「国内での労働賃金は、市場価格で決まるのか?」
 これは、どちらも「イエス」である。
 (a)は、正しい。各国におけるウエイトレスの賃金を比較すると、ウエイトレスの能力そのもので決まるのではなく、貿易産業の力量で決まる。日本には強い貿易産業があるから、平価レートが上がり(円水準が高くなり)、そのせいで賃金水準が高くなる。ここで、賃金水準と生産性は、同義である。
 (b)は、正しい。ウエイトレスの賃金がどうなるかは、国内では国内の労働市場における需給だけで決まり、為替レートがどうのこうのということは関係ない。実際には為替レートも関係があるのだが、「外部経済を無視すれば」という仮定(国内市場に限定して考えるという仮定)があるので、為替レートは無視される。
 この二つが、(i)(ii)の正体だ。つまりは、両方は、全然別のことを話しているのであって、論議としては噛み合っていない。
 では、なぜ、(i)(ii)は論議の対象となるように見えるのか? それは、(i)(ii)の論者が、どちらも用語をメチャクチャに使っているから、見かけ上、見解が対立しているように見えるだけだ。本当は(a)(b)のように表現するべきなのに、(i)(ii)のような無意味な表現に書き換えるから、見かけ上、対立があるように見えるだけだ。
 要するに、経済学音痴の素人が、経済学の用語を誤って使っているせいで、ありもしない矛盾があるかのように見えてしまうだけである。経済学の用語を正しく使えば、矛盾も対立もない、とわかる。

 教訓。経済学音痴の論議は、非生産的である。そこには、同語反覆(トートロジー)と、口汚い悪口と、自己弁護があるだけ。読むだけ無駄。
 
 [ 付記2 ]
 ついでに言っておこう。(a)に関連するが。
 「ウェイトレスなどのサービス業の人々の賃金水準が高いのは、トヨタのような貿易産業の力が強いからだ。ゆえに、ウェイトレスなどのサービス業の人々の賃金水準が高いのは、トヨタのような貿易産業のおかげである。(だから人々はトヨタに感謝するべし。)」
 この話の前段は正しいが、この話の後段は間違っている。なぜなら、次の事実が見落とされているからだ。
 「トヨタが大儲けできるのは、トヨタ以外の日本の全国民のおかげである。(だからトヨタは人々に感謝するべし。)」
 トヨタが「自力で大儲けできた」と思うのは、とんでもない傲慢不遜である。そのことは、翌日分で説明する。
( ※ では、正解は? 「社会はたがいに持ちつ持たれつ」である。こういうふうに「共同関係」というのを考えるのは、エゴイズムを重視する古典派にとっては苦手なところ。はっきり言って、古典派経済学者というのは、社会性が欠落しており、社会に適応できないような連中だ。古典派経済学者は、頭がいいから学者になったというよりは、会社に就職できないから仕方なく学者になったような連中ばかりだ。社会性の欠落。ひどいものである。「自分の稼いだ金はすべて自分が産み出したものだ」と思い込んでいる。「社会への感謝」など、一雫ほどもない。)
( ※ あなたに娘がいるなら、娘を古典派経済学者と結婚させることだけはやめた方がいい。古典派経済学は「おれが優秀だからおれは儲けたんだ」「おれの稼ぎはすべておれが生み出したものだ」と主張して、「妻の貢献」「内助の功」なんか絶対に顧みない。それでいて、「おれがエゴを貫徹すれば、おれの給料が増えるので、そこから妻に恵んでやる。これで家庭は円満だ」と思い込んでいる。こんな連中と結婚すると、娘が不幸になるだけだ。)


● ニュースと感想  (3月01日)

 「日興と三洋の粉飾」について。
 日興コーディアルと三洋の粉飾で、大騒ぎがあった。
 まず、日興コーディアルは、上場廃止の騒ぎ。
日興株、売り注文殺到 上場廃止を懸念
 不正決算で上場廃止の懸念がある日興コーディアルグループの株価が28日、一時、値幅制限の下限である前日比200円安の1147円のストップ安で売り気配となった。一部で「東京証券取引所が日興を上場廃止へ」との報道があったため、売り注文が殺到。午前の終値は同197円安の1150円だった。
 東証は、3月半ばに上場廃止か維持かの判断を出す。これまでの検討の中で「不正会計は組織的で悪質」との見方も浮上しており、一部で廃止基準で明記している「影響は重大」に該当するとの見解も出ている模様だ。
( → 朝日のサイト

 次に、三洋電機。
三洋電機が額は未定のまま、決算を訂正すると異例の発表
 不正決算問題で揺れる三洋電機は27日、01年3月期〜04年3月期における子会社と関係会社の株式の損失処理額を見直し、計4期分の単体決算を訂正すると発表した。訂正額は未定だが、早ければ3月にも金融庁と証券取引等監視委員会に対し、報告する。三洋は「監視委から問題を指摘されたことを受けて自主訂正することにした」と説明するが、過去の損失処理を必要な額より少なくしていたことと、投資家に正確でない情報開示をしていたことを自ら認めた格好だ。
( → 朝日のサイト
 今までの報道は、「疑いがある」という未確定情報だったが、ようやく確定したことになる。金額は確定していないが、事実は確定した。

 さて。以上の二つの問題は、もちろん、ライブドア事件と比較できる。まったく、どっちみち、ライブドアよりもはるかに悪質である。なのに比較をしないマスコミもおかしいし、検察もおかしい。ま、比較すれば、自分たちの間違いがバレバレになるからだろうが。おのれの過ちを認めないのは、検察もマスコミも同じ。
 ここまでは何度も繰り返したのと同趣旨だから、特に繰り返すまでもないかもしれない。そこで、追加的な話を少々。

 (1) 日興と東証
 日興については、他の新聞記事によると、東証が談話を出したようだ。「影響はあることはわかっているが、放置するわけには行かない」と。
 なるほど、もっともらしい。確かに、放置するわけには行かないし、処罰する必要もある。だが、処罰する相手が間違っている。
 まず、上場廃止なんていうのは、どう考えても変だろう。今回の事件では、被害者は株主だ。株主が損を受けたのに、その株主を罰するために、上場廃止をするのでは、本末転倒だ。この発想は、次のことに相当する。
 「交通事故が起こった。これは放置できない。ゆえに、交通事故の再発を防ぐために、被害者を処罰する」
 馬鹿げている。被害者は交通事故で被害を受けた側だ。なのに、加害者を処罰するのでなく、被害者を処罰するのでは、相手が逆だ。「被害者を処罰すれば交通事故が減る」という理屈は成立しないのだ。
 だから、処罰するなら、加害者を処罰するべきだ。では、加害者とは? 三人いる。一つは、経営者だ。もう一つは、まともな監査をしてこなかった監査人だ。もう一つは、まともな監査人を送らないまま決算を許した東証だ。
 このうち、一番悪いのは、東証だ。そもそも、東証に上場するなら、その監査人は東証が選任しなくてはならない。なのに、経営者に選任させた。そこに粉飾の根源がある。最大の責任者は、東証である。当然、東証が処罰されるべきだ。
 今回の当省の方針は、「泥棒が被害者を処罰することで再発を防ぐ」というのと同様だ。狂っている。

 (2) 三洋とエンロン
 三洋は、一番悪質性が高い。これはエンロンと同様だ。つまり、赤字で会社が立ちゆかなくなったのを隠すために、経理を粉飾する、という手口だ。範囲は明白であり、真っ黒である。グレーである余地はない。まったくの黒だ。
 こいつこそ最悪の犯罪だ。ここに検察が出てこないのは、まったく不思議だと言える。エンロンを検挙したのと同様に、三洋を検挙する必要がある。なんで三洋を検挙止ないのか? ライブドアで懲りのか? あつものに懲りて、なますを吹く。呆れたものだ。

 (3) 一罰百戒
 こういう不公平を正当化するために、「一罰百戒」を主張する人もいる。「スピード違反だって、全員を逮捕できないから、目立つ人だけ逮捕する。それと同じさ」と。これはひどい詭弁だ。
 だいたい、これでは理屈になっていない。「スピード違反だって、全員を逮捕できないから」というが、たしかに、スピード違反なら、全員を逮捕できない。「逮捕すべき人を逮捕する」のではなく、「逮捕できる人だけを逮捕する」というふうになっている。これは仕方ない。「逮捕できない人を逮捕する」ということは、論理的にありえないからだ。日本中の違反者をどんどん逮捕することは物理的に不可能だから、逮捕しないだけだ。もちろん、あえてお目こぼしをするのとは違う。
 しかし、決算の場合は違う。ライブドア以外に、NEC、ミサワホーム、日興、三洋、どれもこれも、すべてを逮捕できる。ここでは、逮捕できないから逮捕しないのではなく、逮捕できるのに逮捕しないのだ。
 交通違反なら、違反者があまりにも多大で、罪は小さいから、やむなく見逃すこともある。しかし、殺人事件だったら、逮捕できる相手を見逃すことはないだろう。不正経理だって同様だ。日本中のちっぽけな不正経理をすべて検挙することはできないが、数百億円規模の不正経理をすべて検挙することはできる。NEC、ミサワホーム、日興、三洋、どれもこれも、すべてを逮捕できる。せいぜい、このくらいしかないのだから。なのに、数百億円の大物を放置して、50億円のライブドアばかりを(何と特捜部を動かしてまで)大々的に逮捕する。あげく、日本中で大騒ぎをする。
 これを一言で言えば、「狂気」であろう。ま、「錯覚」と言ってもいいですけどね。(そのわけは、拙著「ライブドア・二重の虚構」で記したとおり。

 [ 付記 ]
 ライブドアのことなんか、どうでもいい? そんなことを言っているから、真実を見失う。あげく、景気の真実についても見失う。かくて、政府にだまされ、不況を好況と思い込み、大損しながら「景気回復」と喜ぶハメになる。だまされ続けるのも、どしがたいほどだ。
 過ちて改めず、これを過ちという。……その根源は、過ちを認識しないことにある。

( ※ 生産性の話は、翌日分から続きます。)

  【 追記 】 ( 2007-03-02 )
 上記では「東証が監査人を選任するべきだ」と書いたが、これについての注釈。うるさい人以外は読む必要はない。
 この件は、前にも説明した。( → 該当箇所
 要するに、監査人を選任するのは株主総会だが、それだと経営陣が勝手に自分に好都合な監査人を選んでしまう。(ライブドアを見てもわかるし、他社を見てもわかる。)だから、東証が監査人を(一人または複数の選択肢で)指定して、それを株主総会で決定する、という形にする。このことは法的には規定されていないから、東証がそれを上場の条件とする。会社側は、それを受け入れてもいいし、受け入れなくてもいい。受け入れない場合には、東証の側が上場を拒否する。
 こういうことは細かな手続き上の問題だから、ただの形式問題にすぎない。本質とは何の関係もない。単に「東証が監査人を選任する」という一文で足りる。だから、上記では簡単に説明した。この追記は、揚げ足取りをしたがる人向けの解説。

  【 追記 】 ( 2007-03-03 )
 朝日の社説から引用する。
 日興 上場廃止もやむを得ぬ
 自由で公正、透明な市場をつくっていくうえで、証券会社は主導的な役割を果たさなければならない。
 ……
 上場企業の模範となるべき存在でありながら、市場を裏切るような振る舞いをした証券会社の株を、そのまま上場させておくわけにはいかない。
( → 朝日・社説 2007-03-02 )
 話の前段では、「証券会社の責任」に言及している。ところが、どこでどういう論理になったのか、「責任者を罰せよ」という結論を出すかわりに、「被害者(株主)を罰せよ」という結論になってしまっている。頭が倒錯的。論理倒錯。
 私としても、罰することは必要だと思う。ただし、私が本項の本文で主張したのは、「罰することは必要だが、罰する相手を間違えるな。被害者を罰するのは、筋が通らない」ということだ。
 罰する相手は、加害者であるべきだ。それは、一義的には経営者であり、二義的には東証だ。一方、朝日は「罰することが必要だ」と述べるばかりで、「罰する相手が被害者であるべきだ」ということの理由を述べていない。
 仮に、朝日の主張が成立するなら、次のようになる。
 「政府の失政で、日本国民はひどい被害を受けた。バブル崩壊後に、数十兆円規模の被害を受けた。これほどひどい被害はあるまい。ゆえに、誰かを罰する必要がある。誰を? 私ならば「責任者である政府や経済学者を罰せよ」と思う。だが、朝日は、「被害者を罰せよ」という主張だ。そこで、「国民を罰するべし」となる。「上場廃止」のかわりに、「民主主義の廃止(投票権の廃止)」が結論となる。「政府が失政したから、政府は国民の声を聞け」というのならわかるが、「政府が失政したから、投票権を廃止せよ」という結論になる。
 馬鹿げている? 確かに、馬鹿げている。その馬鹿げたこととそっくり同じことを、日興の株について主張しているのが、朝日だ。「公正」という価値判断を重視するのはいいが、「不公正」にあたるものが何であるかを理解できていない。加害者と被害者の区別ができていない。頭と論理が混線しているのだ。
( ※ 「変な経営者を選んだ株主が悪い」という理屈が成立するなら、「変な政治家を選んだ国民が悪い」という理屈が成立して、やはり、国民の投票権は奪われてしまう。問題の根源は、「経営を委託された経営者が裏切ったこと」「政治を委託された政治家が裏切ったこと」にある。つまり、一種の詐欺だ。こういうふうに裏切りがあった場合には、裏切られた者に責任があるのではなく、裏切った者に責任がある。経営者が「不正経理をします」と公約して、そうしたのであれば、株主は裏切られたわけではないので、株主に責任がある。しかし、経営者が「不正経理をしません」と公約した上で、そうしたのであれば、株主は裏切られたことになるので、株主に責任はない。……ともあれ、ここでは、「裏切り」「嘘つき」が根源的である。その有無を理解しないのが、朝日だ。だから、変な経営者を選んだ株主が悪い」という発想になる。頭が単細胞。)


● ニュースと感想  (3月01日b)

 「株価の急落」について。
 株価が急落した。新聞では大騒ぎ。( 2007-02-28 )
 だが、私見を言えば、大騒ぎするほどのことじゃない。ただの調整でしょう。
 そもそも、私はここのところ、「株価が急に上がりすぎている」と思っていた。やたらと上がりすぎている。思惑だろうが、上昇ゲーム。で、そのゲームのバカらしさに気づいた人が、さっさと勝ち逃げする。それを見て、他の人もあわてて追いかけるが、遅れた人が大損する。……それだけのことだ。
 要するに、「一時的に上がりすぎたから、反動が出て、元に戻った」というだけ。このまま大幅に下落するというのとは、わけが違う。
 基本的には、日本でも米国でも、株価は「現状維持」が妥当であろう。少しは上がるかもしれないし、少しは下がるかもしれないが、だいたい現状維持だ。で、ここのところ、少し上がりすぎていた。で、その反動が出るのは、当然のことだ。
 階段を一段ずつ急いで上ったあとで、最後にてっぺんから一挙に飛び降りた( or エレベーターで一挙に下った)。それだけのことだ。
 つまりは、当り前のことがあった、というだけ。騒ぐほどのことはない。
( ※ ただし、「景気が回復中なので、このままどんどん上がり続けるだろう」なんて思うのは、どうかしている。「階段を永遠に上りつづけることができる」なんて信じる方がおかしい。バベルの塔じゃないんだからね。)

 [ 付記 ]
 過去の例で言うと、暴落の翌日には、底値買いの素人がわんさと押し寄せて、急反発する。その後、素人が消えて、またじわじわと下がる。……これを利用すると、素人を食い物にして、儲けることが可能だ。
 逆に言えば、01日には、カモにされる素人がいっぱい出てくるだろう。「泉の波立ちを読んでおけばよかった」と思っても、後の祭り。


● ニュースと感想  (3月02日+)

 前々項の最後に、追記を加筆した。
 東証が監査人を選ぶ、ということについての、細かな形式的な話。ま、どうでもいい話です。特に読む必要はありません。
  → 該当箇所


● ニュースと感想  (3月02日)

 「生産性と技術水準」について。
 ネットをめぐっていたら、すごい珍説にぶつかった。
 「先進国の給料が途上国の給料よりも高いのは、先進国で、労働者の生産性が高いからではなく、工場の生産性が高いからだ」
 ここでは「労働者の生産性」にかわる「工場の生産性」というものを持ち出してきている。素人ならではの珍説と言うべきか。
 経済学の用語では、生産性(労働生産性)とは、次のことである。
    生産性 = ( 生産額 / 単位労働力)
 簡単に言えば、労働者一人が1時間だけ働いたときに、どれだけの生産額をもたらすか、ということだ。
 ここでは、「生産性」と「技術水準」とを混同してはならない。「生産性」を高めるには「技術水準」を高めればいいが、だからといって双方は等価ではないのだ。
 たとえば、ベッカムの生産性が高いのは、ベッカムの技術水準が高いからではなく、彼がハンサムだからだ。ロナウジーニョがいくら努力して技術水準を高めてもベッカムのような生産性を上げることはできないが、ロナウジーニョがハンサムに生まれていればベッカムのように生産性を上げることができる。(生産性とは、金を稼ぐ能力のことだ。ゴールして得点する能力ではない。)
 特に、経済学の場合は、次の二点が重要だ。

 (1) 先進国と後進国
 先進国のウエイトレスは生産性が高く、後進国のウエイトレスが生産性が低い。これは、双方のウエイトレスに技術差があるからではないし、また、双方の喫茶店に技術水準の差があるからでもない。では何が違うかというと、客の払う金額が違う。先進国では客が多額のコーヒー代を払い、後進国では客が小額のコーヒー代を払う。だからウエイトレスに生産性の差が生じる。この生産性の差は、ただの所得の差にすぎない。(人や設備の技術差ではない。)
 工場でも同様だ。日本のニコンのデジカメ工場では生産性が高く、タイのニコンのデジカメ工場では生産性が低い。では何が違うかというと、双方の労働者や工場の技術水準が大幅に違うのではなく、双方の労働者のもらう賃金が違う。日本の労働者は高い賃金をもらうから生産性が高く、タイの労働者は低い賃金をもらうから生産性が低い。タイの工場労働者の賃金が五分の一だとしたら、工場労働者や工場技術者の技術水準が五分の一だということではなくて、タイの国全体の賃金水準が低いからにすぎない。
 ここで、疑問が生じるだろう。「ならば、タイの工場で生産して、日本の工場で生産をやめればいいではないか。なぜそうしないのか?」と。
 これは、労働者や工場の技術水準とは関係なく、一国全体の技術水準が関係する。日本にはあらゆるインフラや市場などが整備されているが、タイには欠けているものがいろいろとある。技術者との交流とか、市場との関係とか、周囲との連携とか、いろいろとある。そういう国全体の問題があるから、日本の工場がこぞって途上国に移転するということはない。
 要するに、物事を「生産性」や「技術水準」だけで片付ける発想が、根本的に狂っているのだ。
 後進国の工場は、労働コストは低いが、国際競争力は日本とほぼ同等である。その理由は、労働コストでは有利でも、労働コスト以外の点で不利だからだ。差し引きすれば、先進国も後進国もほぼトントンなのである。
   先進国  □□□□□□□□□■■
   後進国  □□□□□□□■■■■
 先進国では、労働コスト( □ )は高いが、他のコストが低い
 後進国では、労働コスト( □ )は低いが、他のコストが高い。
 ( ※ 先進国における他のコストの低さというのは、周辺環境の有利さとほぼ同義。市場で受け入れられるものを比較的安価で作れること。)

 (2) 勝者と敗者
 とにかく、コスト(特に労働コスト)だけでは勝負は決まらない。これが現実だ。
 なのに、「優勝劣敗」という妄想を信じたあげく、「優れている方が有利だ」「コストの低い方が有利だ」というふうに勝手に信じるのが、古典派経済学者だ。
 古典派経済学者は、「コストの低い方が有利だ」と信じたあげく、こう主張する。
 「途上国では労働コストが低いから、途上国が有利だ」
 「中国は労働コストが低いから、そのうち世界を席巻するだろう」
 「日本は労働コストが高いから不利だ。国際競争力の維持のためには、賃下げが必要だ」
 これらはすべて嘘八百である。現実には、そうならない。途上国の方が成長率は高いだろうが、途上国は決して先進国を追い越せない。途上国がどんなに有利であっても、先進国を追い越すことは決してない。絶対にない。
 では、なぜか? 仮に、タイが急成長して、日本を追い越すことがあるとしたら、そのときには、タイは先進国になっているのであって、タイはもはや後進国ではないからだ。先進国を追い越すことができたなら、その時点で、先進国になっているのだから、後進国が先進国を追い越すことは絶対にないのだ。(その時点では、タイの賃金水準は日本を上回っていることになる。)
 というわけで、低賃金の国が高賃金の国に勝つ、ということはありえない。低賃金の国が高賃金の国の技術水準に近づいたら、そのとたんに、低賃金の国の賃金水準が上昇するからだ。

 (3) 好況と不況
 話を戻そう。経済を好転させるには、技術水準を上げればいいのではないし、賃下げをすればいいのでもない。その前に、根源的な措置を取ればいい。では、根源的な措置とは? 
 そもそも、「経済の病気を治す」という根源がある。この根源が満たされない限り、何を言っても無駄だ。どんなに技術力があっても、どんなに賃下げをして企業が有利になっても、肝心の需要がなければ、せっかく作った物が売れない。
 経済の病気を治すこと。縮小した需要を回復させること。「需給は均衡する」という妄想を信じるかわりに、「需給が均衡しない病気状態がある」という真実を認識して、縮小した需要を回復させること。── それこそが、何よりも先に過大となる。
 この最優先の課題を無視して、生産性のことをいくら論じても、まったく無意味なのだ。比喩的に言おう。入試前の受験生が、風邪を引いて、治りかけて、病み上がりになった。これに対して、どう勧告するか? 
 古典派経済学者 …… 「合格するには、学力を高めるのが大事だ」と主張して、「学力を高めよ。学力を高めよ。学力を高めよ」とバカのひとつ覚えのごとく繰り返す。ホテルに泊まった受験生に、「勉強しろ」と叫び続けて、受験生をノイローゼにする。
 マクロ経済学者 …… 「合格するには、まず風邪を完治するのが先決だ。学力がどうのこうのと考える以前の問題だ」と認識して、風邪を完治させようとする。「何かをせよ」と命令するかわりに、ホテルの側がベッドと食事を用意して、ゆっくり休ませて上げる。
 どちらの処置が正しいか、おわかりだろうか? 
 こうして見れば、「生産性を高めよ」という論議が、いかに見当違いであるか、よくわかるだろう。一言で言えば、「トンチンカン」である。そして、その効果は、受験生の風邪をこじらせてしまうことだ。

 結語。
 「景気回復のために生産性を高めよ」という論議は、根本的に見当違いである。
 好況のときに「生産性の向上」をめざせば、国全体の生産量が増える。だが、不況のときに「生産性の向上」をめざせば、企業は余剰人員の解雇をめざすので、一国全体の総所得はどんどん低下して、状況はかえって悪化する。
 生産性の向上は、人を鍛えるために、スポーツや勉強をやらせる、というようなものだ。健康な人には効果があるが、病気の人には逆効果になる。やればやるほど、被害が出る。
 では、どうすればいいか? 「生産性の向上」を、一時的に休止すればいい。一時的には生産性が悪化してもいいから、国全体の病気を改善すればいい。病気の人は一時的には訓練を休んで、治療に専念した方がいいのだ。……その知恵があれば、病気を治して、健康に戻ることができる。その知恵がなければ、病気のさなかで、しきりに「訓練」ないし「生産性の向上」を求めるので、病気をこじらせる。(現状はそうだ。「生産性の向上」を求めるので、病気をこじらせている。)

 蛇足。
 古典派経済学者ほど、この世に有害なものはない。彼らは真実だと信じて、虚偽を主張するので、世の中はどんどん悪化する。彼らがいなければ、病気の患者は、自発的に病気を治療したはずだ。なのに古典派経済学者が「頑張れ、努力せよ」と勧告するせいで、病気の患者は、無理に起きあがって働くので、病気の回復が遅れる。バブル破裂以来、とうとう16年にもなってしまった。こんなにも病気が長引いて、いまだに先が見えないのは、古典派経済学者が「頑張れ、努力せよ、生産性を上げよ」と勧告するせいだ。
 健康な人には成立することも、病気の人には成立しない。(均衡状態では成立することも、不均衡状態では成立しない。)……この根源を理解しない古典派経済学者は、この世界を破壊する悪魔も同然なのである。
( ※ 比喩的に言えば、オセロを破滅させるイアーゴーのようなものだ。口先巧みに誘導して、相手を破滅させる。それが古典派経済学者。だまされたオセロが日本国民。)

 [ 付記1 ]
 上の (1) で述べたように、先進国における有利さとは、周辺環境の有利さとほぼ同義である。
 このことからわかるが、トヨタが大儲けできるのは、トヨタ独りの力によるのではなく、社会全体の貢献があるからだ。社会のおかげで、トヨタは大儲けできるのだ。
 そのことを理解するには、次のことを想定するといい。仮に、トヨタ一社が単独でサハラ砂漠に移転すれば、どうなるか? 一日で崩壊してしまうだろう。電力もガソリンもないから何も生産できない。食料も水もないから社員はみな餓死する。トヨタ一社でできることなど、何一つないのだ。トヨタがやっていることは、社会の富を安上がりに利用して、自分だけが儲けることだけだ。一種の泥棒[食い逃げ]である。だから自分ばかりが儲かる。(税負担はともかく、メセナをろくにやっていない、ということ。米国ではやっていても、日本ではやらない。日本人をバカにしているので。)
 話が逸れた。話を戻す。
 社会の生産性(≒ 賃金水準 ≒ 平価レート)が高いのは、貿易産業の競争力が強いからだ。貿易産業の競争力が強いのは、周辺環境が良いからであり、社会全体の貢献があるからだ。
 では、先進国の人々の賃金水準が高いことについては、誰に感謝するべきか? トヨタなどの輸出企業に? いや、社会全体にだ。
 ここで問題が生じる。社会全体の人々が社会全体の人々に感謝するとしたら、自分で自分に感謝するということになり、話がおかしくなるのではないか? 
 実は、おかしくない。なぜなら、社会全体の人々というのは、時間の違いがあるからだ。現代における高賃金という成果を得ているのは、現代において生きているわれわれだけである。一方、現代の日本に貢献しているのは現代までの過去のすべての日本人である。(あと、外国からの貢献もある。世界の一部としての日本。それにはとりあえずは、言及しないでおく。)
 ともあれ、現代日本で輸出企業が強いのは、ソニーやトヨタやキヤノンに勤める社員が優秀だからではなくて、ソニーやトヨタやキヤノンを構築してきた過去の社員が多大な貢献を後世に残してきてくれたからだ。そしてまた、過去の社員がそういうことをできたのは、過去の社員のまわりで彼らを支えてくれた大勢の人々がいたからだ。たとえば、過去のキヤノンの社員は、いきなりキヤノンの社員になれたわけではなく、それ以前に、多くの人々の努力によって義務教育などの環境が整備していたからこそ、教育を受けて、キヤノンの社員になれたのだ。
 人は決して独力では生きていけない。人はみな社会の力によって育てられてきた。そして、特に、過去の先人たちの貢献があまりにも大きい。現代の日本人の学力は、中国や台湾や韓国の人々と比べて、大差ない。しかし、過去の日本人の学力は、中国や台湾や韓国の人々と比べて、圧倒的に優位であった。だからこそ、その蓄積によって、キヤノンやソニーやトヨタなどの企業が世界企業として存続できる。
 現代のウエイトレスが途上国のウエイトレスよりも高給をもらえるのは誰のおかげかと言えば、過去の先人たちの多大な貢献のおかげなのだ。今の若者は、ゆとり教育などの名目で、ろくに勉強もしないで、ゲーム機などをピコピコやっているだけだ。それでいて、まともに給料をもらえるのは、なぜか? バカぞろいでも給料がいいのは、なぜか? それは、先人が非常に勉強して、ガレキだらけの敗戦国を、ほんの一世代か二世代ぐらいで、世界最先端の国にまで高めてくれたからだ。その蓄積があればこそ、現代の若者は、能力がなくても高い賃金を得られるのだ。また、能力のある若者もまた、おのれの能力を発揮できる機会を与えられている。彼らは、能力があるから稼げるのではない。能力を発揮できる機会を与えられたから、能力を発揮できるのだ。
 現代の一つ一つの企業の業績は、目に見える。過去の日本人全体による貢献は、目に見えない。しかし、目に見えるものばかりにとらわれて、目に見えないものを見失うと、真実を理解することはできない。あげく、「おれの稼いだ金はおれの力だけで稼いだ」というふうに、傲岸不遜な思い込みをするようになる。(そういう人たちはそろって、「税金を負けろ」と主張する。卑しいね。)

 [ 付記2 ]
 蛇足。「工場の生産性」という言葉に関しては、否定的に述べた。するとこれに対して、余計な突っ込みを入れる人もいそうだ。「生産性には労働生産性のほかに資本生産性もあるぞ」というふうに。(特に、経済学部の学生みたいな初心者は。)
 ま、教科書には、そう書いてある。だが、資本生産性の違いなんて、どこでもたいして違いはないのだから、経済学の世界では、たいして考えなくてもいいのである。実際に企業を経営するときには考えるべきだが、経済学的には無視してよい。というのは、それは、「変数」ではなく「定数」と見なせるからだ。



● ニュースと感想  (3月03日+)

 前々日分の最後に、追記を加筆した。
 日興の上場廃止についての朝日の社説があったので、それへの批判。朝日への悪口。南堂の毒舌を読みたい人向け。
  → 該当箇所


● ニュースと感想  (3月03日)

 「生産性と技術水準」について。
 新聞を見ていたら、すごい珍説にぶつかった。例によって小林慶一郎の主張。(朝日・朝刊・オピニオン面 2007-02-26 )
 「市場原理では利己主義によって最適化される。その意味は、利己的であれ、ということではなく、利己的であっても、ということだ。たとえ利己的であっても市場原理によって全体が最適化される。決して利己主義や拝金主義を推奨しているわけではない」(大意)
 市場原理による限界が判明したのを見て、こういうふうに取りつくろう。しかし、これはとんでもない珍説である。
 「利己主義や拝金主義で配分が最適化される」というのは、ミクロ経済学の原理だ。このことは誰も否定していないはずだ。私だって否定していない。なのに、誰も否定していないことを、小林は否定する。「たとえ……であっても、ということだ」というふうに、勝手に自己流に歪める形で。
 バカを言ってはいけない。配分に関する限り、利己主義が最善なのだ。仮に、全体の最適化を狙うのであれば、社会主義や政府統制になる。それでは失敗する、というのは、ソ連の例を見れば明らかなとおり。
 要するに、利己主義や拝金主義は、最善の方法なのである。このことは誰も否定できないはずだ。

 問題は、それが適用できる範囲が限定されている、ということだ。ミクロの問題(配分の問題)については完璧に適用できる。しかしながら、全体量の問題については、適用できない。パイの配分の仕方については適用できるが、パイ全体の大きさについては適用できない。
 パイが与えられたとき、「どのように配分するべきか」という問題には、次の二通りの方法がある。
 (1) お母さんが勝手に配分を決めて、切り分ける。
 (2) 各人がお小遣いを出しあって買う。値段を付けて、売買で配分を決める。
 前者は、政府による配分決定だ。後者は、市場における配分決定だ。で、後者は、利己主義だけがある。ここでは、利己主義だけで決めるのが、最善なのだ。
 とはいえ、与えられたパイの配分ならば、利己主義で済むが、与えられるパイがどのくらいかは、利己主義だけでは済まない。たとえば、兄弟が全員そろってお母さんに要求する。「もっと大きいパイをちょうだい」と。これは、利己主義では済まない問題だ。全員の結束が必要だ。

 要するに、次のようになる。
  ・ ミクロ …… 利己主義がベストだ。
  ・ マクロ …… 利己主義だけでは済まない。
 これが、ミクロとマクロの根本的な違いだ。この違いを理解しよう。そして、ここでは、「利己主義が良くない」とか、「たとえ利己主義であっても」とか、そういう単純な発想は成立しない。「適用する場面(ミクロ/マクロ)によって、可否が異なる」というふうに、違いを理解することが必要だ。

 さて。ここで本質的なことを述べよう。ミクロでは利己主義がベストであり、利他主義や博愛主義などは必要ない。博愛主義などはかえって有害ですらある。(たとえば共産主義者は博愛主義である。博愛主義の名目で、金持ちの富を奪い、労働者に配分する。しかしその配分は、いくら善意であっても、非効率である。)
 では、なぜ、そうなのか? なぜ、利己主義がベストなのか? 利己的というのは、この世で最高の原理だとは思えないのに、なぜ利己主義がベストだということが成立するのか? その理由は、こうだ。
 「一人一人の個人には、できることとできないことがある。できる範囲では、自己の利益を増やすことだけを考えていればいい。一方、全体の利益を増やすことは、大切なことではあるが、それは一人一人の個人のできることでははない。」
 あなたにとってできることは、あなたの利益の最大化だけだ。自分の富を増やして、自分と家族の幸福を最大化することだけだ。あなたはそれだけを考えていればいい。他人の幸福をどうするか、なんていうことは考える必要はない。あなたは自分の利益だけを考えていればいい。あなたは利己的であればいいのだ。
 しかし政府は違う。政府は全体利益の最大化をめざすべきだ。すなわち、マクロ政策を実施するべきだ。
 ここでは、一人一人のなすべきことと、政府のなすべきこととは、分断される。一人一人はエゴイズムを貫徹すればいいし、政府はマクロ政策を貫徹すればいい。そのどちらか一方が正しいということはない。それぞれは別のことである。
 比喩的に言えば、右車輪は自己の最適のことをやればよく、左車輪は自己の最適のことをやればよい。右車輪が左車輪の仕事をやる必要はなく、左車輪が右車輪の仕事をやる必要はない。それぞれの役割は分担されている。
 エゴイズムの良し悪しでいうなら、ミクロの範囲ではエゴイズムが最適である。ただし、それではマクロの問題は解決しない。ミクロの最適化はミクロの最適化であって、マクロの最適化を意味しない。ミクロとマクロはまったく別のことであり、それぞれ別の原理が適用されるのだ。
 こういう違いを理解することが必要だ。従って、次のような命題は、無意味である。
  ・ エゴイズムは善か悪か? 
  ・ 生産性の向上は善か悪か? 
 ミクロとマクロの区別をしないで、単にこのように問うことは無意味である。また、特にいけないのは、次のことだ。
  ・ エゴイズムは、ミクロでは善である。ゆえにマクロでも善である。
  ・ 生産性の向上は、ミクロでは善である。ゆえにマクロでも善である。
 こういうトンチンカンをやる人を、古典派経済学者と呼ぶ。

 [ 付記1 ]
 小林は、以上の違いを理解できていない。ミクロとマクロの違いを理解できていない。単純に「利己主義はよい」とか「市場原理はよい」とか主張するだけだ。つまり、配分の問題と全体量の問題を、区別できていないのだ。── これを一言で言えば、「マクロ音痴」である。
 記事の後半には、マクロ経済学についての記述があるが、それを読むと失笑せざるを得ない。マクロ経済学には何も成果がない、というふうに思い込んでいるらしい。苦笑。「あんたが知らないだけでしょ」と突っ込みたくなる。
 こういう無知な人間が、マスコミで誤解を拡大する。誤解の拡大再生産。新聞というものは、真実を広めるためにあるのだが、彼は虚偽を広めるために新聞を使っている。彼はいつになったら、おのれの無知を理解できるのか? 
 最小限、「45度線モデル」というケインズのモデルを理解するべし。教科書にも書いてあるでしょ。それとも、頭で走っていても、ただの知識になっているだけで、意味を理解できないのでしょうか? 
 頭がただの「メモリとCPU(記憶器と高速処理器)」になっている。自分で考える能力がない。教科書の頁をめくることはできても、何を意味しているかを理解できない。困ったことだ。
 IT化の推進のなかで、人間はますますパソコン化していく。頭がただの「メモリとCPU」になって、自分で考える能力をなくしている。(彼だけじゃないですよね?)

 [ 付記2 ]
 私は原則として個人批判をしないが、この人だけは別。なぜなら:
 (1) この人だけが新聞紙上に、特別のスペースをもって、持論を大々的に展開する。毎度毎度だ。権力者と同等である。
 (2) 時節なら時節だと明示するべきなのに、客観的な記事の体裁を取る。これはペテンと同様だ。詐欺師である。ひどいものだ。マスコミにおいて、その有害さは計り知れない。是非とも「だまされるな」と広く警告する必要がある。


● ニュースと感想  (3月04日)

 「生産性と労働構造」について。
 最新の労働統計が出た。
 総務省が2日発表した06年平均の労働力調査によると、フリーターの数は前年に比べ14万人減り、187万人になった。02年に通年調査を始めて以来、初めて200万人を下回った。厚生労働省は「景気回復で、フリーターと新卒者が正社員になる常用雇用化が進んでいる」とみている。
( → 朝日com
 ──────────────────── 
 総務省が2日発表した労働力調査結果(2006年平均)によると、雇用者全体に占めるパート・アルバイトや派遣社員ら「非正規社員・職員」の割合は、前年比 0.4ポイント増の 33.0%となり、02年の調査開始以来、最高を更新した。
 前年に比べて、世紀は37万人増、非正規は44万人増で、非正規の増加の方が多かった。
(読売・夕刊・2面 2007-03-02。ネットにはない記事。)
 同じ調査で、正反対の解釈が出ている。
 前者は、「フリーターが減った」という事実を見て、厚労省が「正社員が増えた」という解釈を出す。(朝日はそのまま報じる。)
 後者は、統計事実だけを見て、「正社員の割合が減った」という事実を報道する。
 どちらが正しい解釈かは、言わずもがな。

 では、なぜ、前者のような勘違いが生じたのか? 前者の記事の続きを見るとわかる。こうある。
 フリーターは、15〜34歳でパートやアルバイトとして働いている人らを指す。
 つまり、若者に限っては非正規社員が減った、ということだ。これを見て、「非正規社員全体が正規社員になった」と思ったわけだが、実はそうではなく、全年齢で見れば非正規社員全体の割合は増えているわけだ。要するに、右手で減って、左手で増えているとき、右手だけを見て、「減った、減った」と喜んでいるのが前者。物事の全体を見ていないわけだ。

 さて。後者の記事には、続いて、次のようにある。
 正規と非正規の年収を見ると、男性の場合、正規は「500〜699万円」が21.2%と最も多く、非正規は「199万円以下」が56.8%と過半数を占めた。
 げげげ。これは途方もない数字だ。ひどいものですね。
 読売の社会面(同日)には、ワーキングプアの実態を体験するルポが出ている。そこに出ている話だと、単純作業をひたすら繰り返すばかりの虚しい仕事をやらされるという。仲間の話だと、週4日働いて、月の稼ぎは8万円ほど。年収百万円程度でしょうか。「単純作業の繰り返しに、心が折れそうになる」という。

 さて。以上は報道された事実だ。このあと、考察する。
 こういう問題を解決するには、どうすればいいか? 先に出た古典派の解釈は、
 「生産性を上げて賃金を上げればいい」
 というものだ。しかし、単純労働者の生産性を上げることなど、できるはずがない。単純労働者というのは、技能のない労働者のことなのだから、生産性の上がりようがない。(ま、全然無理だということはないが、努力して急激に改善するものでもあるまい。)
 では、どうすればいいか? 私が述べたのは、こうだ。
 「単純労働者(非正社員)を、正社員にすればいい。そのために、総需要を拡大すればいい」
 総需要を拡大すれば、総生産が拡大する。すると、正社員ではまかなえない分の生産をまかなうために、非正社員が正社員になる。かくて、
      「非正社員 → 正社員」
 という移動が起こり、そのことで、賃金上昇(= 生産性の向上)が起こる。(マクロ的に。)
 要するに、生産性を上げるためには、単純労働者がその労働においてスキルアップして必要などはない。単に総需要を増やすだけでいい。すると、単純労働者が職種を変えて正社員になるから、一挙に劇的に生産性が向上する。
 具体的に言えば、「靴を並べる」という作業をしていた単純労働者が、その作業においてスキルアップするのではなく、「靴を並べる」という作業をやめて、「靴を作る」という作業に転じる。そのことで、大幅に生産性を向上させる(= 大幅に賃金を上げる)。ただし、それが可能になるには、条件がある。「靴の需要が大幅に増える」ということだ。そして、そのことは、ここの労働者は企業がなせることではない。一国全体の規模における、政府のマクロ政策だけがなせる。
 だから、大切なのは、生産性を上げようとして、個々の企業が技術開発をしたり、労働者がスキルアップすることではなくて、政府が総需要拡大策を取ることなのだ。そのことによって、単純労働者が単純労働者のままスキルアップするかわりに、単純労働者が正社員に職種転換し、かくて、生産性が大幅に向上するようになる。
 これが正しい経済政策だ。(古典派にはわからないでしょうけどね。)
 
 とにかく、不況の問題については、根源を理解するべきだ。なのに根源を理解しないから、いつまでたっても不正規社員が大量に残留する。
 今回の労働統計は、日本の経済政策が根源的に誤っていることを示す。「景気は回復した」などという嘘を信じているから、こういう事実を直視できない。あげく、右手だけを見て、左手を見ないで、「フリーターが減った、万歳」などとぬか喜びすることになる。猿並みの知恵。


● ニュースと感想  (3月04日b)

 「格差是正と最低賃金」について。
 格差是正のために最低賃金を引き上げる、という案がある。民主党が提案するらしい。(各社ニュース 2007-02-28 〜 03-03 )
 これはまことに馬鹿げたことだ。比喩的に言うと、こうなる。
 「学級内で、学力に格差が生じた。出来の良い生徒は好成績だが、出来の悪い生徒は零点ぐらいだ。格差がひどい。そこで教師は考えた。格差を是正するために、最低点数制度を設けよう。出来の悪い生徒には、下駄を履かせて、最低でも50点を取れるようにする。名前を書くだけで 50点だ。これで格差が是正される」
 馬鹿げている。こんなことをやっても、形式的に格差が是正されるだけで、何の解決にもなっていない。
 最低賃金の引き上げも同様だ。こんなことをやっても、仕方ない。底辺層の労働者は報われるかもしれないが、最低賃金ぐらいしか払えないような中小企業の経営が苦しくなり、結果的に、その労働者は失業してしまうかもしれない。賃上げ半分、失業半分、というところだろう。これでは何の解決にもなっていない。

 一般に、好況のときには、「最低賃金も払えないような中小企業はさっさと倒産しろ」と言える。なぜなら、その企業が倒産しても、他の企業が労働者を雇用できるからだ。(中小企業の優勝劣敗。それによる全体の改善。)
 しかしながら、不況のときには、それが成立しない。「最低賃金も払えないような中小企業はさっさと倒産しろ」と言い出したら、連鎖倒産がひろがって、不況はますます悪化する。
 これが、好況期と不況期との違いだ。したがって、不況期には無理に最低賃金を上げるべきではない。

 本質的には、どうか? 最低賃金の引き上げというのは、ただの配分の変更にすぎない。貧者を優遇するが、貧者以外を冷遇する。最低賃金の人は一時的に賃金上昇を得るが、そのせいで企業が倒産したら、他の社員が巻き添えを食って損をする。(たとえ倒産しなくても、他の社員が割を食う。)
 そもそも、国が企業経営に口を出すというのは、共産主義政策だ。賃金を国家の指導で決めよう、というわけだ。市場原理(古典派)がダメだからといって、共産主義を取るのでは、是正の方向が正反対だ。なすべきこととせいはんたいのことをやっている。

 では、どうすればいいか? 市場原理(古典派)がダメならば、マクロ政策を取ればいい。最低賃金を強制的に引き上げるのではなく、最低賃金が自発的に上がるように労働需要を増やせばいい。そのためには、商品需要を増やせばいい。── 結局、総需要拡大というマクロ政策のみが正しい。それによって、配分が変更されるのではなく、パイが大きくなる。パイが大きくなると、結果的に、底辺層が大きく優遇される。(特に優遇されるというよりは、単に人並みになるだけだが。)

 私は前に、「賃上げ」の必要性を述べた。その際、こう注記した。「一社だけが賃上げしてもダメだが、全企業が賃上げすれば、マクロ的に総所得と総需要が増大する」と。
 同様のことは、本項でも成立する。「一社だけ」のかわりに、「最底辺層だけ」で賃上げをすることは、マクロ的に総需要を拡大するこうはないから、無意味なのだ。やった企業だけが損をする。
 賃上げをやるのはいいが、やるならば、「最底辺層だけ」なく、「全国民」でなくてはならない。一部だけがやってもダメなのだ。一部だけで強制的に賃上げをさせようと言うのは、マクロ政策ではなく、共産主義政策である。それは、配分の変更を変えるだけで、パイを大きくすることはない。そんなことでは、状況は悪化するのは、火を見るよりも明らかだ。(中小企業の倒産が増大する。)

 結語。
 市場原理でうまく行かないからといって、市場原理に介入するのは根源的に間違っている。市場原理で済むことは、市場原理に任せるだけでいい。問題は、市場原理では済まないことだ。つまり、総需要の制御だ。これには、自由放任主義(古典派)ではダメだし、政府統制主義(共産主義)でもダメだ。かわりに、マクロ経済学をなすべきだ。すなわち、市場の内部(配分の問題)には一切介入しないが、市場の規模だけを制御する、という主義だ。
 ミクロとマクロとは、担当分野が異なる。政府は、マクロには介入するべきだが、ミクロには介入するべきではない。そこを根源的に間違えたのが、民主党の政策だ。
 政府は、何をすべきで、何をすべきでないか。そこをよく理解する必要がある。さもないと、なすべきことをなさないまま、なしてはならないことばかりをなすようになる。病気の患者に対して、必要な治療をなさず、有害な虐待ばかりをなすようになる。
 自由放任を唱える自民党は、必要な治療をなさない。政府による介入を唱える民主党は、有害な虐待ばかりをなす。どちらもイカレている。

( ※ 本項の趣旨は、前項とほぼ同様。原理的な話については、前項[3月04日]を参照。)


● ニュースと感想  (3月05日)

 「賃金と生産性のまとめ」について。
 ここまでに述べた話(賃金と生産性の話)を、ざっとまとめてみよう。
 「賃金は生産性で決まる」 ……(*)
 「賃金を上げるには、生産性を上げればいい」 ……(**)
 この二つの主張は、サプライサイドの主張だ。だが、これは根源的に間違っている。こういうことが成立するのは、「個別企業」または「超長期」の場合に限られる。(つまり、古典派経済学が適用可能である場合に限られる。)
 不況期における国全体の場合(つまり、古典派経済学が適用可能でない場合)には、上記の(*)(**)は成立しない。むしろ、逆のことが成立する。
 「生産性は賃金で決まる」 ……(#)
 「生産性を上げるには、賃金を上げればいい」 ……(##)
 ただし、ここでいう「生産性」や「賃金」は、個別企業の値ではなく、国全体の値である。
 で、なぜ、(#)(##)のことが成立するかというと、一人一人の能力が劣っているからではなくて、一人一人の能力が発揮される機会(つまり需要)がないからだ。(特に不況期には。)
 不況期に各人が靴をたくさん作れないのは、靴を作る能力がないからではなく、靴を作っても売れないからあえて意図的に靴を作らないだけだ。……こういう本質を理解しないまま、「靴をたくさん作ればいい」というふうに主張すると、結果として、供給過多の状態になり、経済は急激に悪化する。(赤字倒産が続出し、デフレによって経済は自己破壊していく。オウンゴール。)
 古典派経済学者の主張は、日本経済を自殺させようとするものだ。需要不足のまま、供給だけを改善しても、ダメなのだ。

 [ 付記1 ]
 「デフレによって経済は自己破壊」していく、と述べたが、これは「日本の自己崩壊」とも言える。
 公園の滑り台が消えていく、という記事があった。(朝日・朝刊・社会面 2007-03-03 )。滑り台とか、公衆便所の屋根とか、墓地の線香台とか、マンホールの蓋とか、道路の側溝の網状の蓋とか、金属がどんどん消えていく。なぜかというと、それらの金属を盗んで、鉄くずなどの形で売り払うからだ。
 逮捕された人から聞くと、3万円ぐらいの売上げが得られるという。泥棒をして、3万円。逮捕される危険も考えると、割に合わないですね。にもかかわらず、泥棒が増えている。というのは、泥棒がいやなら、派遣社員になるぐらいしかないからだ。それだったら、泥棒をする方がマシだ、という計算も成り立つ。失敗しても、留置場で飯が食えるから、餓死する危険はない。
 で、どうなるか? 泥棒は3万円を得するが、社会は滑り台の制作費である 30万円もしくは再設置費込みで 50万円を損する。泥棒が3万円の得で、社会は 50万円の損。差し引きして、大損だ。
 そして、それというのも、社会がおのれの過ちに気づかないからだ。「総需要の拡大によって総生産を拡大する」という道を取らず、「生産性の向上によって総生産を減らす」という道を取るからだ。……つまり、泥棒は、増えているのではない。政府がわざと泥棒を増やしているのだ。
 日本の自己崩壊。自分で自分の首を絞めているのだが、そのことを自覚できないせいで、自分のやっていることの意味がわからない。そこで、「助かろう」として、目の前にあるヒモ(生産性の向上というヒモ)を、力いっぱい引く。しかしそのヒモの先は、自分の首に巻き付いているので、自分で自分の首を絞めることになる。にもかかわらず、経済学者は、「助かるためには力いっぱい引け。もっと引け」と唱えるばかりだ。

 [ 付記2 ]
 そもそも「生産性の向上による景気回復」というのは、6年ぐらい前に小泉前首相が唱えた「構造改革」路線そのものだ。で、その結果は? 「ワンフレーズ政治」という言葉で名高い首相らしく、単に「構造改革」もしくは「生産性の向上による景気回復」というキャッチフレーズが出ただけで、実質的には何もなされなかった。
 なるほど、「e-Japan 計画でIT産業の振興」という施策は出された。しかしその結果は、「中年のおばちゃんにマウスの操作法を教えるIT講習会」で、何も成果を生み出さないまま血税を浪費したことぐらいだろう。(これは生産性ゼロ。)
 「生産性の向上」なんて、口先で言うぐらいの効果しかない。実際に(マクロでなく)各企業で生産性を高めるには、社員の血のにじむような努力と卓抜な発想が必要だが、そのためには、小泉純一郎や経済学者が「生産性の向上」と唱えるのは、何一つ効果がない。たったの一円分の効果もない。当り前でしょうが。「小泉の意見を聞いて、生産性を上げることに成功した」なんていう企業があったら、お目にかかりたいものだ。
 要するに、学校の校長先生が「学力を上げよう」とキャッチフレーズを上げても無駄で、教育の場で教師と生徒が努力するしかない。そして、そのためには、校長のキャッチフレーズなんか、有害無益なのだ。校長がなすべきは、教育環境の整備なのに、その肝心のことをほったらかしにするからだ。
 政府がなすべきことは、「生産性の向上」と唱えることではなく、「生産性の向上」が実際の生産の増加に結びつくように、需要を増やすことだ。なのに、政府が肝心のことをやらないから、民間企業がいくら「生産性の向上」をもたらしても、無効になってしまう。
 ここを理解しないと、どうしようもないですね。

 [ 付記3 ]
 では、いったい何を理解すればいいのか? 経済学の初心者および古典派学者向けに言うと、こうだ。
 「マクロとミクロとは、適用する場面が異なる」
 マクロの場面(一国経済)には、マクロ経済学が適用される。ミクロの場面(部分市場)には、ミクロ経済学が適用される。両者は、適用する場面が異なる。
 比喩的に言えば、風邪薬が適用されるのは風邪という病気であり、胃腸薬が適用されるのは胃腸病という病気である。それぞれ、適用できる病気が決まっている。適用外の病気に使っても、効用がない。マクロとミクロも同様だ。
 なのに古典派経済学者は、ミクロ経済学がミクロの場面で適用できたからといって、マクロの場面にも適用しようとする。ミクロの部分市場では「自由放任」で(配分が)最適化されたからといって、マクロの一国経済でも「自由放任」で(量が)最適化されると思い込んでいる。
 こういう発想は、ヤブ医者の発想だ。だから、「それではダメだよ」と指摘するのが、私の主張だ。
 ミクロとマクロの区別。── こんなことは、経済学のイロハなのだが、理論は知っていても現実には適用できないのが、古典派経済学者だ。困ったものだ。(マクロ経済学を本質的に理解していないから、こういう愚かなことをするハメになる。勉強不足。)


● ニュースと感想  (3月06日)

 字形の変更にともなって、「文字化けだ、文字化けだ」と大騒ぎする人もいるが、そういうことをなしてはならない。
  → Open ブログ 「字体化けの問題」


● ニュースと感想  (3月07日)

  → Open ブログ 「字体差への対応」
 「字形の変更」のあと、二種類のフォント(略字と正字)が共存する。これにどう対応するべきか? 
 主語別に、「××はどうするべきか?」という話をしよう。


● ニュースと感想  (3月08日)

 「生産性の向上についてのモデル的な説明」について。
 生産性の向上について、素人にもわかりやすいように、モデル的に説明してみよう。「仮に生産性が2倍になったらどうなるか?」という想定でモデル的に考える。(ここで言う生産性は、金額的ではなく量的な生産性。)

 (1) ミクロ的考察
 まずは、ミクロ的に考える。
 ある企業の生産性が2倍になったとする。たとえば、一人あたりの靴の生産量が2倍になったとする。すると、売上げは倍増し、企業利益は倍増し、労働者の賃金も2倍になる。めでたし、めでたし。
 こうしてミクロ的には、「経済を改善するには、生産性の向上が大切だ」という結論が出る。これはまったく問題ない。

 (2) マクロ的考察
 問題は、マクロ的考察だ。ある企業の生産性が2倍になるのではなく、一国全体の生産性が2倍になったとするったとする。すると、どうなるか? 
 次の三通りが考えられる。

 (2-1) 需要の増加
 生産性が2倍になったなら、生産量も2倍になる。では、生産量の増加に応じて、需要も2倍になるか? 
 もし需要も2倍になるのならば、何も問題はない。(1) の場合と同じことになる。しかしながら現実には、そうはならない。同じ金額で2倍の量を買えるとしても、需要は2倍にはならないのだ。たとえば、次の通り。
  ・ 自動車は、2倍も必要ない。
  ・ パソコンは、2倍も必要ない。
  ・ テレビは、2倍も必要ない。
  ・ コンドームは、2倍も必要ない。
  ・ キャベツは、2倍も必要ない。
 たとえ2倍の物が生産されても、需要は2倍にならない。具体的な例を挙げると、キャベツだ。あるとき、豊作でキャベツが(量的に)2倍生産されたとする。すると、どうなるか? 一つの農家だけで2倍生産されたなら、その農家の所得は2倍になる。しかし国中で2倍生産されたなら、価格が暴落するので、所得は増えるどころか減る。では、なぜ、そうなるか? 供給は2倍になっても、需要は2倍にならないからだ。
 ここでは、「需給は均衡する」という前提が崩壊している。── このことを理解できれば、あなたはマクロ経済学を理解している。このことを理解できなければ、あなたは古典派経済学者(つまり現実を理解できないバカ)である。

 (2-2) 労働時間の短縮
 では、需要が増加しないとしたら、どうなのか? 生産性の向上は、悪いことなのか? いや、そうではない。「労働時間の短縮」という道がある。すなわち、こうだ。
 「生産性が2倍になったので、労働時間を半減する。週に50時間の労働を、週に 25時間の労働に減らす。労働時間は半減したが、生産量は維持される。かくて、国中で、生産量と需要は以前と同じまま、労働時間だけが半減する」
 これは、すばらしいことだ。そして、大局的には、人類の歴史はこのような流れを取ってきた。マルクスの嘆いたころには、英国の炭鉱労働者は毎日 15時間ぐらい働かされ、メチャクチャな長時間労働だった。(いや、今だって一部の労働者は、そのくらいの長時間労働だが。)それでも、日本の 60年代〜バブルのころには、時短が次々と実施されて、長時間労働はおおむね解消していった。(一部の例外を除く。)
 ともあれ、生産性の向上は、「労働時間の削減」という形で、人間に幸福をもたらすはずだ。こうなれば、とてもすばらしいことだ。ここではまさしく、「生産性の向上はすばらしい」というふうになる。
 では、現実には、そうなるか? そうなるかどうかは、次のことによる。
  ・ 生産性の向上の効果が、労働者の「時短」に還元される。
  ・ 生産性の向上の効果が、労働の「賃金」に還元される。
 この双方が満たされれば、労働者は、時短を得て、同時に、従来と同じ賃金水準を得ることができる。それはもちろん、当然そうなってしかるべきだ。実際、北欧の国民は、そういう生活を享受している。
 では、日本では? そうなっていない。なぜかというと、生産性の向上の効果が、労働者の「時短」にも「賃金」にも還元されないからだ。かわりに、生産性の向上の効果は、企業利益の増加という形で、企業にばかり集中する。……これが現状だ。

 (2-3) 企業利益の増加
 生産性の向上の効果は、企業利益の増加という形で、企業にばかり集中する。こう言う現状では、マクロ的には、どうなるか? 次の二つのことが起こる。
  ・ 労働者は、時短(労働時間半減)を受けるかわりに、半数が失業する。
  ・ 労働者は、給与を維持されない。雇用された労働者は給与を維持されるが、失業した労働者は給与がゼロになる。平均して、賃金は半額になる。
 その結果、どうなるか? 失業率は大幅に高まり、同時に、国民の総所得は半減する。それがマクロ的な効果だ。
 実を言うと、それに輪をかけて、ミクロ的な効果が生じる。失業者はたとえ低賃金でも雇用されたがるから、賃金が暴落する。豊作のキャベツが捨て値になるように、失業した労働者の賃金は捨て値になる。具体的には、生活保護以下の賃金しか得られないようになる。
 そして、これが、現状だ。現状はまさしく、そうなっている。

 結語。
 生産性の向上が幸福をもたらす、というのは、ミクロ的には成立するが、マクロ的には成立しない。マクロ的に成立するとしたら、北欧のように(あるいは日本の高度成長期のように)、生産性の向上の効果が労働者に適正に配分された場合に限られる。
 そうならない場合には、生産性の向上の効果は企業に集中する。その結果、総需要が縮小し、企業は「生産した物が売れない」という状況になる。余ったキャベツが売れないのと同じことで、企業は生産性を向上させた結果、自分で自分の首を絞めることになる。
 そして、こうなる理由は、生産性の向上の効果が労働者に適正に配分されないからだ。労働者の力が弱まりすぎたせいで、企業の力が過剰に強くなり、そのせいで、バランスが取れなくなった。労使のバランスが取れなくなったせいで、市場でもバランスが取れなくなった。供給を増やすことばかりを考えたせいで、需要を増やすことができなくなり、需給のバランス(均衡)が不可能になった。

 では、どうして、こういう悲惨なことになったのか?
 理由の一つは、労働組合の力が弱くなったことだ。(2月25日,2月25日b を参照。)
 だが、それはさておき、根源的なのは、古典派経済学者の嘘だ。「生産性を向上すれば経済は好転する」という嘘。供給だけを見て、需要を見ない嘘。「市場では常に需給は均衡する」という嘘。……何から何まで、古典派経済学者が嘘をついて、その嘘を人々が信じるから、経済のバランスは崩れてしまうわけだ。というか、経済のバランスが崩れても、その崩れを認識できなくなるわけだ。
 ま、現実を認識できず、妄想ばかりを信じているということで、狂人と同じである。最近の用語では、統合失調症という。経済の分野では、古典派経済学者のことを言う。夢ばかりを信じて、現実を見ない。


● ニュースと感想  (3月09日)

 「生産性の向上は誰に幸福をもたらすか (1)」について。
 ここまで述べてきた話を見ると、「生産性の向上は不幸をもたらす」というふうに感じられる。しかし、原理的には、そんなことがあるはずがない。にもかかわらず、「生産性の向上は不幸をもたらす」という例が示されてきた。(キャベツの暴落など。)……この問題を理解するには、次の3点に着目しよう。
  ・ ミクロとマクロ
  ・ 均衡と不均衡
  ・ 生産者と消費者

 1番目の「ミクロとマクロ」というのは、すでに何度も述べたことだ。ミクロにおける生産性の向上と、マクロにおける生産性の向上とは、異なる。生産性の向上は、ミクロにおいては該当企業に利益をもたらすが、マクロにおいては全企業に不利益をもたらすことがある。(常に、ではないが。)

 2番目の「均衡と不均衡」は、1番目の「利益/不利益」の違いをもたらす条件だ。「均衡」ならば利益をもたらすが、「不均衡」ならば不利益をもたらす。後者の例がキャベツの暴落などだ。(この件は前項で述べたとおり。)

 3番目の「生産者と消費者」は、まだ述べていない。これを本項で扱おう。
 まず、すでに述べた例は、次の例だ。
 さて。この二つでは述べられていないことがある。それは、「ミクロ」で「不均衡」の場合と、「マクロ」で「均衡」の場合だ。

 まず、「ミクロ」で「不均衡」の場合は、いわゆる「不完全競争」に相当する。「市場競争が完全でないから、不均衡が起こる」という発想だ。ニュー・ケインジアンがいろいろと論じている。私としても言及したいことはあるが、話が面倒なのと、話の成果が小さいこととから、言及しないでおく。(無視しても差し支えない、ということ。)
 大事なのは、「マクロ」で「均衡」の場合だ。これを本項で扱う。

 ではいよいよ、本論に入ろう。「マクロ」で「均衡」の場合、生産性の向上は、何をもたらすか? 該当産業全体に利益をもたらすか? このことを知るには、実例を見るといい。
 例は、半導体のメモリだ。CPU だと、性能は向上したが個数は同じだから、生産性の向上ははっきりとしない。一方、メモリだと、量的に急激に増えたから、生産性の向上ははっきりとする。具体的に言うと、Windows95 の登場したころは、 8MB〜16MBが標準だった。しかるに今では、512MB〜1024MB(1GB)が標準的だ。その分だけ、メモリの生産量も増えていることになる。ざっと見て、1000/10 = 100 となるから、おおざっぱに 100倍の量が生産されてる。とすれば、量的には 100倍の生産性となっている。(従業員の数は同じだと仮定する。現実には、増えるどころか減っているかも。ま、おおざっぱな話なので、細かなことはどうでもいい。)
 ここで問題だ。生産性が(量的に)100倍になったことで、労働者の所得は 100倍になったか? なっていない。なぜなら、メモリの価格もまた(記憶容量あたりで) 100分の1に低下しているからだ。差し引きして、労働者の所得は変わらない。
( ※ 正確に言えば、労働者の所得は、変わらないどころか、低下している。昔は先進国で生産していたが、今は台湾あたりで生産しているので、労働者の賃金は何分の一かに低下している。したがって、金額的な生産性も同様に低下している。)

 こうしてみると、「(量的な)生産性の向上は、企業の利益の増加も、(金額的な)生産性の向上も、どちらももたらさなかった」と言える。
 では、(量的な)生産性の向上は、人類にとって何のメリットもないのだろうか? もしメリットがないとしたら、あまりにも不思議だ。

 実は、メリットはある。(量的な)生産性の向上のメリットを、まさしく多大に享受している人々がいる。それは、生産者ではなく、消費者だ。生産性の向上によって、消費者は、同じ金額で 100倍の量を買うというふうに、多大な恩恵を受けている。
 だから、こう言える。「業界全体における生産性の向上(マクロ的な生産性の向上)は、生産者にとってメリットがあるのではなく、消費者にとってメリットがある」と。一方、こう言える。「(個別企業における)ミクロ的な生産性の向上は、生産者にとってメリットがある」と。
 この両者を区別するべきだ。つまり、全員がそろって優秀になることと、一社だけが優秀になることとは、まったく異なる。 一社だけが優秀になれば、その社だけが儲かる。しかし、全社が優秀になれば、全社が儲かるわけではなくて、かわりに、消費者が儲かる。

 ではなぜ、両者は区別されるのか? 一社だけの場合にはわかりやすいが、全社の場合にはなぜ生産者の全員が儲かることができないのか? それは、市場原理からわかる。
 生産者の全員が優秀になると、供給曲線がシフトする。そのせいで、得られたメリットは、供給側から、需要側へと、移転する。たしかにメリットは生じるのだが、そのメリットは、市場を通じて、(価格低下という形で)供給側から需要側へと流出してしまうのだ。それがそもそも、市場原理というものだ。
 市場原理では、優勝劣敗という形で、各人が切磋琢磨する。そのことで、社会全体が向上する。その向上のメリットは、社会全体に還元される。どういうふうに還元されるかというと、市場を通じて、利益が供給側から需要側へと流出するという形で還元されるのだ。
 このことはあらゆる産業に当てはまる。メモリだけでなく、液晶テレビもそうだし、自動車もそうだし、電力もそうだ。あらゆる産業で、その産業の向上の成果は、社会全体に還元される。一社だけが向上したのであれば、特許のような形で、その一社だけが利益を独占できる。だが、全社が向上したのであれば、向上の利益は社会全体に還元される。……それが市場原理というものだ。
 
 以上のことをまとめると、こう言える。
 「マクロ的な生産性の向上は、消費者に利益をもたらす。」
 ここで言う利益とは、何か? 金のことか? メモリを買う金が百分の一に減るということか? つまり、支出が減るということか? もしそうならば、金が余るので、不均衡になる。ここでは、均衡であることが仮定されているから、そういうことはない。とすれば、支出は減らない。かわりに、買う量が百倍になる。これは、消費者の生活が質的に向上するということだ。だから、こう言える。
 「マクロ的な生産性の向上は、消費者の生活を質的に向上させる。」
 これが正解だ。

 たとえば、CPUの性能が急激に向上するということは、CPU会社が儲かるということではなくて、社会全体において消費者の生活が質的に向上するということだ。同様のことは、テレビにも自動車にも当てはまる。
 要するに、人類の歴史において、(金額的な)生産性がどんどん向上したということは、(量的な)消費量がどんどん増えたということではなくて、(質的な)生活がどんどん改善していったということなのだ。たとえば、テレビは白黒からカラーになり、さらにはプラズマや液晶になった。自動車はラジオとヒーターしかない空冷直列4気筒エンジン車から、カーナビとエアコンが完備したV6高級車になった。文房具は紙と万年筆から、パソコンとインクジェットプリンタになった。……こういう歴史では、(量的な)消費量がどんどん増えたということはなくて、(質的な)生活がどんどん改善していった。
 生活の質の向上。それこそが、生産性の向上のもたらすものだ。
 実際、「生活の質の向上」は、人類の進歩の過程で、常に生じてきた。産業革命以来、合繊繊維や、映画や、テレビや、自動車や、コンピュータなどが発明されて発達するたびに、消費者における「生活の質の向上」が起こってきた。そのような向上は、まさしく生じてきた。

( ※ ここで、話を区切る。続きは、翌日分で。)


● ニュースと感想  (3月10日)

 「生産性の向上は誰に幸福をもたらすか (2)」について。
 前日分では、こう述べた。
 「マクロ的な生産性の向上は、消費者の生活を質的に向上させる。」
 たしかに、その通りだ。問題は、それが人間の幸福をもたらすか否かだ。

 人間の幸福とは、何か? 消費生活だけか? もちろん、愛情生活などもあるが、そういう個人的な面は除いて、社会全体で経済的な面だけを考えることにしよう。すると、人間の幸福は、(経済的に)次の二面があると言える。
  ・ 消費者としての幸福
  ・ 生産者としての幸福
 第一に、消費者としての幸福なら、まさしくある。前項の通りだ。
 第二に、生産者としての幸福はどうか? これが問題だ。これについて論じよう。

 生産者としての幸福は、マクロ的な生産性の向上によってもたらされるか? 否。そのことは、前項で示したとおりだ。マクロ的な生産性の向上がいくらあったとしても、その利益は、市場を通じて、消費者に流出してしまう。
 このことが重要だ。古典派経済学者は、「雇用の改善のためには、生産性の向上を」とか、「企業業績の改善のためには、生産性の向上を」とか主張する。しかし、彼らは、(マクロ的な)市場原理というものをまったく理解していない。つまり、前項のことを理解していない。
 現実には、マクロ的な生産性の向上が(国全体または業界全体で)生じたとしても、そのことは生産者には利益をもたらさない。生産者としての企業も労働者も、生産性の向上のメリットを享受できない。享受するのは消費者だけだ。

 では、生産者がメリットを得るには、どうすればいいか? 実は、生産者がメリットを得る方法などは、もともとない。それが市場原理というものだからだ。
 市場原理においては、他社に対する相対的な優位さのみが、利益をもたらす。他社よりも少しでも有利であれば、その社が利益を得る。しかし、全体がそろって優秀になれば、誰も利益を得られない。市場原理というのは、そういうものなのだ。全員がみんなそろって利益を得る方法などは、ないのだ。
( ※ ただし逆に言うと、市場原理を停止すれば、全員が利益を得ることができる。談合やカルテルがそうだ。市場原理を停止して、全員が利益を得る。……ただし、その分、消費者が損をするが。)

 では、(生産者の)誰もが良くなる方法というのは、ないのか? まったくないわけではない。全員が過度の利益を得ることは不可能だが、全員が損失をこうむることを防ぐことはできる。たとえば、不況のように、全員が赤字になっているという状況を、回避することはできる。
 ただし、その方法は、生産性の向上ではない。では、何か? マクロ的な処方だ。すなわち、「プラスをもたらす」という方法ではなく、「マイナスを回避する」という方法だ。

 そして、ここでは、「マイナスとは何か」を理解することが先決となる。病気を治すには、病気を知ることが先決になる。では、病気とは? つまり、マイナスの理由とは? ── それは、「生産力の低下」ではなくて、「需要の低下」である。

 たとえば、今までは靴を一日に10個生産していたのに、不況期には靴を一日に9個しか生産しない。なぜか?
 (1) 古典派経済学者ならば、「生産量の低下は、生産性の悪化のせいだ」と述べるだろう。しかしこれは誤りだ。なぜなら、生産性の悪化があれば、供給不足のせいで靴の価格が急上昇するので、企業は損をするどころかボロ儲けをするからだ。つまり、マクロ的な生産性の悪化は、企業に大幅な利益をもたらす。(カルテルによる生産調整と同じだ。)……現実には、不況期には利益は大幅に減少する。ゆえに、古典派の説は間違いだ。
 (2) マクロ経済学者ならば、「生産量の低下は、需要の縮小のせいだ」と述べるだろう。これが正解だ。説明しよう。不況期には靴を一日に9個しか生産しないのは、9個しか生産できないわけではなく、意図的に9個しか生産しないでいるのだ。(あとの時間は、遊休していることになる。設備も人員も遊休する。)
 では、なぜ生産しないのか? 売れない物を生産すれば、大幅赤字になるからだ。たとえば、遊休して何もしないでいれば、特にコストは増えない。しかし、売れない靴をあえて作れば、靴の材料費などのコストが急激に増える。しかも、その靴は売れないから、大損だ。だから、生産者はあえて靴を作らないのだ。
 「売れない物は作らない。能力不足で作れないのではなく、能力があっても作らずに遊んでいる。つまり、わざと生産性を低下させている。その方が儲かる(損が減る)からだ」
 これが事実だ。この事実を理解しよう。
 仮に、古典派経済学者の説(量的な生産性を高めると儲かるという説)が正しいのであれば、失業した労働者は自宅で料理をたくさん作ればいい。料理をたくさん作ることで、遊休が減り、量的な生産性が高まるはずだ。しかし現実には、誰もそんなことをしない。誰も量的な生産性を高めようとしない。なぜなら、料理をたくさん作っても、買ってくれる人がいないからだ。すると、無駄な手間がかかるだけでなく、料理の材料費として莫大な出費の分がすべて無駄になるので、大損する。量的な生産性が高まれば高まるほど、金額的な生産性は大幅なマイナスとなる。(キャベツの暴落と似ている。)

 結論を言おう。
 マクロ的な生産性の向上は、消費者全体には幸福をもたらすが、生産者全体には幸福をもたらさない。生産者全体に幸福をもたらすものは、何もない。(ただし、市場原理を制限してカルテル状態にすれば、生産者全体に幸福をもたらし、消費者全体に不幸をもたらす。いびつな形で。)
 生産者全体に幸福(プラス)をもたらすものは何もないが、生産者全体から不幸(マイナス)を取り除くものはある。それは、生産性の向上ではなくて、遊休の解消だ。遊休が解消していけば、生産する機会が生じるので、「生産して稼ぐ」という、あるべき状態に戻れる。
 では、遊休の解消は、何によってもたらされるか? 生産性の向上によってか? いや、需要の拡大によってだ。需要の拡大があれば、物が売れるので、生産することができる。その結果、生産の機会が生まれるので、生産者は、あるべき状態(生産して稼ぐという状態)に戻れる。

 まとめて言おう。
 マクロ的な生産性の向上は、消費者全体には幸福をもたらすが、生産者全体には幸福をもたらさない。生産者全体は、幸福を得ることはできないが、不幸をなくすことはできる。そのためには、マクロ的な生産性の向上があればいいのではなく、需要の拡大があればいい。需要の拡大こそ、生産者全体にとっては何より必要なものだ。(不況期には。)

 このことを理解しよう。企業は、「金を寄越せ、金を寄越せ」と望んでばかりいれば、自分で自分の首を絞めることになる。なぜなら、自社商品を買ってくれる客がいなくなるからだ。むしろ、国民に金を与えればいい。そうすれば、国民が自社商品を買ってくれるようになる。
 こういうことは、社会経済全体の流れを理解することによって理解される。かなり複雑だから、自分のことしか考えない猿には、わからないことだ。もちろん自社のことしか考えない企業は、猿と同じだ。
 たとえば、トヨタは労働者の賃金を下げることばかりに熱中しているが、そのせいで日本の自動車の販売台数は前年割ればかりが続いている。「景気は回復した」などといくら言い続けても、自動車の販売台数という数字は正直だ。「企業は自分で自分の首を絞めている」ということを、数字は如実に表す。

 [ 参考 ]
 次の疑問があるかもしれない。
 「各企業が生産性の向上に努力することは、無意味なのか?」
 これについては、上記の「相対的な優位さ」という概念から判明する。
 Aという企業が一社だけ単独で生産性の向上をなせば、そのことで他社に対して優位に立つ。つまり、相対的な優位さが生じる。このことはまさしく、利益をもたらす。
 一方、全員がそろって生産性の向上をなせば、(たがいに打ち消しあう形で)誰も優位に立てない。つまり、相対的な優位さが生じない。このことは当然、利益をもたらさない。
 要するに、各企業が生産性の向上に努力することは、相対的な優位さという意味でのみ、意味をもつ。自社に向上があっても、相対的な優位さがなければ、意味はない。つまり、一社だけが向上すれば効果はあるが、全員そろって同等の向上があれば効果はない。
 比喩的に言おう。通信簿の5段階評価では、相対的な優位さのみが意味をもつ。他の全員よりも優れていれば、5の成績を取れる。他人が50点のときに、一人だけ 60点を取れば、5を取れる。しかし、他人がみんな 50点から 65点に上がったのに、自分だけが 60点のままならば、5から1に低下してしまう。……ここでは、絶対的な点数よりも、相対的な点数が問題となる。
 同様のことは、徒競走の1等賞でも成立する。一人だけ頑張れば1等賞を取れるが、全員が頑張れば全員が1等賞を取れるということはない。
 企業が生産性の向上に努めるのは、利益のためである。それは、相対的な優位さのためであり、絶対的な優位さのためではない。……ここのところを勘違いしてはならない。当然ながら、全員を見れば、絶対的な向上はあっても、相対的な優位さなどはありえない。したがって、生産性の向上によって全員が利益を得る、ということはない。
( ※ なお、例外にこだわるなら、例外はなくもない。Windows95 の登場で、パソコン価格が急落したころ、パソコン会社は全社が儲かった。これは、価格低下によって、市場規模が急拡大したせいだ。……とはいえ、あくまで一時的な現象にすぎない。その後、市場規模は安定したので、市場では淘汰が強まった。寡占が強まり、少数の会社が儲かっただけで、多くの会社は倒産または消滅した。パッカードベルも、ゲートウェーも、今やほとんど名を残すのみだ。こういう栄枯盛衰は、起こることもある。そのうち一時期を見れば、全員が儲かると見える時期もある。)
 

● ニュースと感想  (3月11日)

 「生産性の向上は誰に幸福をもたらすか (3)」について。
 前項では、こう述べた。
 「生産者に幸福をもたらすのは需要の拡大だ」
 このことを、さらにわかりやすく説明しよう。

 需要の拡大とは、何か? 「生産した物が売れる」ということだ。これはつまり、「生産しても大丈夫」(売れ残りが出ない)ということであり、「稼働率が向上する」ということだ。
 生産者としては、どんなに生産性の向上があっても、実際に生産活動をしなければ、無意味である。
 一般に、「能力をもつこと」と「能力を発揮すること」とは、別である。いくら能力があっても、能力を発揮する機会がなければ、能力は宝の持ち腐れとなる。たとえば、どんなに優れた包丁があっても、包丁で切る魚がなければ宝の持ち腐れだ。同様に、どんなに生産性の向上があっても、実際に生産活動をしなければ、生産性の向上が宝の持ち腐れになる。
 そして、需要がないときには、そういうことになる。たとえ生産しても、生産した物が売れないからだ。

 ともあれ、次の三つのことが成立する。(いずれも意味はほぼ同等。)
 「生産性の向上があっても、実際に生産活動をしなければ無意味だ」
 「供給能力があっても、実際に供給しなければ無意味だ」
 「供給能力があっても、需要がなければ無意味だ」
 そして、そういうことが起こるのが、不況という状況だ。

 現代の労働者は、昔の労働者よりも、多くの生産をなす能力がある。しかしながら、需要がないせいで、能力を発揮する機会がない。それゆえ、生産することができないまま、「生産者としての幸福」「労働者としての幸福」を得ることができなくなる。その一方で、「消費者としての幸福」は、常に享受できる。(生産性の向上にともなって。)
 
 以上のことを、図で理解することもできる。次の図を見よう。
     景気と経済成長の図

 長期的に見れば、生産量は破線( - - - - - )のように向上していく。しかし現実には、景気変動のせいで、山あり谷ありである。谷の部分は、不況である。
 長期的に見ると、生産性の向上は、消費者の幸福をもたらす。そのことは常に成立する。
 一方、生産者としての幸福は、そのときの景気状況に左右される。昔の労働者よりも、今の労働者の方が、高い生産性をもつのだが、現実には、その生産性を発揮する機会がない。常にないというよりは、景気によってたえず変動する。現実に生産者(労働者)が幸福になるかどうかは、生産性の向上によって決まるのではなく、景気状況によって決まる。
 特に、不況(景気の谷)にいるときは、昔の山よりも低い生産状況にある。それゆえ、現代人は、一世代前の人々よりも不幸なのだ。(百年前に比べれば幸福だが。)
 過去と現在とを比べれば、過去よりも現在の方が生産能力は高い。しかしながら、現実には、低い生産しかなせない。その理由は、能力が劣るからではなく、能力を発揮する機会がないからだ。供給する能力があっても、供給する機会がないからだ。つまり、需要が不足しているからだ。
 経済においては、供給と需要の双方がバランス良く成長することが必要だ。なのに、供給だけを向上させても、バランスを失うので、状況はかえって悪化する。
 そのことを、上の図は教えてくれる。


● ニュースと感想  (3月11日b)

  印刷会社の、顧客向け文書のテンプレ。
    ※ 「字体の変更があるのでご注意下さい」という文書の見本。
  → Open ブログ「印刷会社テンプレ」


● ニュースと感想  (3月12日)

 「生産性の向上は誰に幸福をもたらすか (4)」について。
 すでに述べたことをまとめると、次の通り。
  (a)  マクロ的な生産性の向上は、消費者を幸福にする。
    なぜなら、消費者の生活が質的に向上するからだ。
  (b)  マクロ的な生産性の向上は、生産者を幸福にしない。
    なぜなら、生産者の利益は、需要の不足の有無にのみ依存するからだ。

 さて。このことから、生産性の向上と景気対策との関係について、容易に結論が出る。
 まず、しばしば信じられているのは、次のことだ。
 「不況のときに景気を回復するには、生産性を向上すればいい」
 しかし、上記の (b) のことから、この政策は無効だとわかる。不況のときに生産性の向上を唱えても、無効である。一社だけがやれば、その一社が利益を得るが、全社がやっても、全社が利益を得るわけではない。(生産性の向上よりも、需要の拡大の方が有効だ。)

 では、マクロ的な生産性の向上は、景気に対してまったく無意味なのか? いや、そうとも言えない。不況のときにはともかく、インフレのときには、次の効果がある。
 「インフレ期に生産性の向上があれば、過熱した需要に対応できる供給の増加があるので、インフレの弊害が減る」
 これはこれで、とても有効なことだ。つまり、マクロ的な生産性の向上は、インフレ対策(インフレ抑制)としては有効である。ただし、前述のように、不況対策にはならない。……この二点をまとめれば、こう言える。
 「マクロ的な生産性の向上は、インフレ対策にはなるが、不況対策にはならない」
 これが正しい認識だ。とすれば、不況期に「生産性の向上を」と唱えるのは、不況期にインフレ対策をしていることになる。物価下落で困っているときに、物価過熱への対策をしていることになる。てんで方向違いだ。
 「構造改革を」とか「生産性の向上を」とか、そういう供給改善策は、インフレ対策にはなるが、不況対策にはならない。やればやるほど、供給の改善によって、需要不足という状況がかえって悪化する。── 比喩的に言えば、熱が下がって困っている病人に、解熱剤を飲ませるようなものだ。「高熱のときには解熱剤が有効だった」という教訓から、「低熱のときにも解熱剤が有効だろう」という判断だ。「高熱も低熱も、どっちも熱の病気だから同じだ」という粗い判断だ。ヤブ医者。
 インチキ経済学者とヤブ医者は同じだ。「生産性の向上は、良いことだ。良いことをやれば、状況は改善する」と判断する。しかしそれは、「薬は良いものだ。良いものを飲めば、病気は改善する」と判断するのと同じだ。「病気ごとに適する薬を変える」という判断がないから、あっちでもこっちでも同じ薬を処方する。その結果は? 有効になるどころか有害になる。── ここでは、「薬は毒になることもある」ということを理解するべきだ。低熱の患者に解熱剤を処方すれば、薬は毒になる。一つの薬が有効か有害かは、患者の病気によって異なる。経済も同様だ。インフレとデフレでは病状が異なる。異なる病状に一つの薬(生産性の向上)だけを処方するのでは、バカのひとつ覚えと同じである。ヤブ医者は治療したせいで患者を殺すこともあるのだ。……そして、それが、今の日本の状況だ。(ヤブ医者とは誰か? 古典派経済学者と、それに主導された日本政府のこと。)


● ニュースと感想  (3月12日b)

 「西武の裏金疑惑」について。
 西武球団が野球のアマ選手(大学生・社会人)に裏金を支出していたということが発覚した。(各紙 2007-03-10 )
 これについて、「絶対に許されないことだ」という論調が出ている。特に朝日はひどくて、事実としての報道面に勝手に「許されない」という主観をまじえて報道している。例によって、事実と意見との混合報道。こっちの方がよほど問題だ。
 なぜか? 巨悪でもないものを巨悪だと報道しているからだ。実を言うと、今回の裏金は、小悪ですらない。まったく悪ではないのだ。そのわけを示す。

 そもそも、希望入団枠がある。これの是非はさておいて、こういう制度がある。これを前提として考えなくてはならない。
 この制度のもとでは、アマ選手の希望を取ることが大事だから、金を払うのは当然のことである。なぜなら、需要と供給は金で調整を付けるというのが市場原理だからだ。この社会の需給調整のすべては、原則として、市場原理で調整されている。そのこと自体が悪だということはない。これが悪なら、社会の全員が悪だ。
 ただし、プロ野球の球界の規定を破ったということで、「決まりを破った」というりみのルール違反はある。それはそうだ。では、それは何を意味するか? 
 単なるルール違反なら、形式的な問題にすぎない。「学校の廊下を走らない」というルールを破ったのと同様だ。社会的に批判されるいわれはない。
 では、実質的には、何を意味するか? こうだ。
 「球界の発展をめざすためにルールを定めたのに、そのルールを破った」(*
 ここでは、球界全体の利益のために、個人の利益を犠牲にする、というルールがあった。それを特定球団と個人が、自分たちの都合で破ったわけだ。では、その意味は? それは、カルテル破りだ。
 つまり、(*)のルールは、もともと業界内部の都合によるカルテルにすぎない。「価格を自由に任せずに業界全体で制限する」というカルテルだ。談合とも言える。……ただし、一般に、カルテル破りないし談合破りは、破った社だけが「抜け駆け」の形で成功する。そこで、他の仲間が「ルール違反だ」と怒り狂うわけだ。
 ただし、カルテル破りないし談合破りによって、一般国民が何か損をするわけではない。(一方、夕張市の不正経理ならば、一般人が損をした。なぜなら、財政再建団体に転落した夕張市のために、国も特別交付税を交付するからだ。 → ニュース
 要するに、今回のルール違反は、業界内部の「カルテル破り」「談合破り」という問題にすぎない。業界の利益は損なわれたが、一般国民の利益が損なわれたわけではない。業界が「汚いことをしやがって、ずるいぞ。仲間の約束を破るなんてけしからん」と怒るのは、わかる。談合をしている連中は、誰だってそういうふうに怒るものだ。悪をなしている連中は、悪の掟を破った奴を指弾するものだ。マフィアやギャングはたいていそうだ。暴力団も同様だ。
 しかし、一般人が、そういうふうに「悪の掟」ないし「カルテル」を破った者を非難するのは、筋違いというものだ。日頃は「市場原理はすばらしい」「談合は悪だ」と叫んでいるくせに、野球の問題になると「市場原理はダメだ」「談合がすばらしい」と唱えるのは、どうかしている。二重基準。
 ま、プロ野球界の健全な発展のためには、こういう談合も必要かもしれない。しかし、その意味は、「野球界がコストを抑えて健全な球団経営をする」という意味であり、「人件費を抑える」という意味だ。それだけのことだ。
 たとえば、同様のことが他の業界であったとしよう。コンピュータ業界が「業界の健全な発展のために、社員の人件費を抑制する」というカルテルを結んで、賃上げを抑制し、派遣社員の賃金も抑制したとする。これに対して、どこかの会社が「優秀な社員を採りたい」と思って、カルテル破りをして、高い賃金で雇用したとする。では、このカルテル破りをした会社は、悪なのか? それとも、市場原理に従っただけだから、善なのか? (もちろん、優勝劣敗の優者になったわけだから、常識的に考えれば、善である。)
 ま、ドラフトのせいで、契約金が異常に高騰する、という問題はある。しかしそれはあくまで業界内部の都合にすぎない。そういう業界の都合の通りにしなかったからといって、社会的に指弾されるいわれなどはない。朝日のような報道は、ほとんど人権侵害に当たる。そちらの方がよほど問題だ。
 だいたいですね、朝日のような新聞社は、新聞代にカルテルを結んでいるのも同様だ。自分たちが実質的に談合をしているから、他人の談合破りが気に食わないだけだ。文句を言いたければ、自分たちが「再販制」を廃止して、自由な価格設定をしてからにすればいい。「再販制」の上であぐらをかいている連中が、「掟破り」を批判するというのでは、マフィアそのものだ。言論マフィア。社会の公器を、自分たちの都合のために、勝手に利用する。ヤクザの抜け駆けをする者が出たら、徹底的に処罰しようとする。「掟破りの奴は、見せしめとして、社会的に抹殺してやれ」というわけだ。まったく、ヤクザと同じだ。

 [ 付記1 ]
 新聞論調は「金で権利(ドラフト権)を買うのは非倫理的だ」というものだ。これは経済というものを誤解している。何かを金で買うことはちっとも悪くはない。心を金で買うことだってちっとも悪くはない。当事者同士が納得しているのだから、少しも悪くはない。他のライバルが出し抜かれて(抜け駆けされて)、悔しがっているだけだ。こんなことは、どの業界でもある。── ついでだが、心を買うのも、愛を金で買うのも、ちっとも悪くはない。金持ちが美女の心を買うことだって、当人同士が納得しているのであればちっとも悪くはない。外野がとやかく言うことじゃない。他人に迷惑をかけているわけじゃないんだから。
 一方、第三者たるマスコミが勝手に指弾するのは、非倫理的であり悪である。ここでは(無実の・違法でない)他人に迷惑をかけている。他人を傷つけている。いじめと同様だ。桑田であれ、一場であれ、犯罪をしたわけでもないのに社会的に過度に指弾されたが、これらはいじめと同様である。……こういうのを、正真正銘の悪という。(被害者が精神的に弱い人間だったら、自殺していたかもしれない。)
 なお、金銭授受がいけないというのであれば、スポーツや学業で奨学金をもらっている学生だって、みんな悪である。同様に金銭を受け取っているのだから。
 なお、他人のお情けで金をもらう奨学生よりは、自分の実力の対価として実力で金を稼ぐドラフト候補選手の方が、よほど立派だ。実力ゆえに対価を取ることの、どこが悪い。他人の金を盗むのとは違う。(奨学生ならば、金を盗むわけではないが結果的には同種のことをしている。対価なしに金を受け取るのだから。)
 ひるがえって、政治家はどうだ? 自分の実力とは関係なしに、国庫から金をもらっているが、それでいて、使途をゴマ化す。「光熱費に数千万円」と嘘をついて、シレっとしている。それでもたいして問題にならない。マスコミは、騒ぐ方向を間違っている。どうせなら政治家の金の使途を探るべきだ。(たぶん、女遊びだろう。小沢の場合は資産形成だったが。)(ついでに言えば、国に金をもらっている乞食みたいな政治家が、ベンツやセルシオに堂々と乗っているというのは、どういうわけなんだ? これは問題ではないのか? )

 [ 付記2 ]
 一夜明けた 11日になると、選手や球団まで頭を下げて騒いでいる。こんなこと、どうってことない問題なんですけどね。
 私の感想は、「あまりに日本的すぎる」ということだ。仲間内の決まりを破ったことで大騒ぎするが、米国あたりだったら誰も騒がないことだ。なぜか? 理由は次の通り。
 そもそも西武が金を払ったということもあるが、選手が金を受け取ったということもある。では、なぜ選手は金を受け取ったのか? 強欲だったかか?
 違う。報道を見ればわかるとおり、この二人の選手(早大・東京ガス)はいずれも家計が苦しくて、親に迷惑をかけられないと思い、金を受け取った。つまり、孝行息子である。一方、平気で彼ら二人を非難している人々は、どうか? そのほとんどは、高校時代も大学時代も、自力で金を稼がなかったグウタラ息子だ。ごくつぶしとも言える。
 つまり、今回の構図は、「グウタラ息子が孝行息子を非難する」という構図だ。「あいつは自分で金を稼いだのが汚い」と非難する、という構図だ。
 しかし、日本では学生が親に金を出してもらうが、米国では大学生は親の家庭を出て、自活する。なぜかと言えば、奨学金も完備しており、自活しようと思えば自活できるからだ。アルバイト環境も十分にある。(今の日本は不況なのでそうは行かないが。)
 要するに、今回の問題が起こったのは、日本の社会制度が不備だからである。そのせいで、貧しい家庭の子弟は、公的扶助を受けられず、自力で何とかしなくちゃならない、ということになった。そこで西武が資金援助した。もちろん腹黒い魂胆はあったが、だからといって貧しい子弟に金を援助することが悪いわけではない。また、それに恩義を感じて貧しい子弟が西武に入団するとしたら、それは恩に報いるということであり、善なる行為である。「恩を裏切るのは忘恩だ」と非難するのならわかるが、「恩義に報いるのは悪だ」と非難するのは筋違いだ。
 要するに、社会制度が間違っているから、そのなかで球団と選手が持ちつ持たれつの関係になる。それを他人が批判する資格などはない。その資格があるのは、大学時代も高校時代も自力で稼いで自活した人だけだ。二人を非難する人々に、その資格があるのか? 
 だから私は世間に言ってやりたい。「自分を顧みてから物を言え。恥を知れ! 」と。
( ※ なかでも一番の罪は、不況を継続させた経済学者ですけどね。「量的緩和」「構造改革」「不良債権処理」なんていう無意味なことをずっと続けた罪は、きわめて重い。国家破壊行為の罪に当たる。)

( ※ あとで思ったのだが、今回の騒ぎは、ライブドア事件に似ている。世間が勝手に善悪判断をして、悪くもないことをした二人を、「巨悪をなした」と指弾している。二人は別に誰に迷惑をかけたわけでもないのに、この上ない悪党のように非難される。また、貧しい学生から金を奪った社は放置され、貧しい学生に金を援助した社が非難される。狂気の日本。気違いばっかり。)


● ニュースと感想  (3月13日)

 文字コードで、
 「シフトJISなんかダメだから、 unicode にしてしまえ」
 という意見がある。しかしこれは素人の暴論である。その勘違いを指摘する。
   → Open ブログ 「シフトJIS と unicode」


● ニュースと感想  (3月13日b)

 「生産性の向上の錯覚」について。
 「生産性の向上で好況になる」
 という説がある。つまり、
 「生産性の向上で好況になるのだから、好況にするには生産性の向上があればいい。日本を好況にするために、これからは生産性の向上に努めよう。生産精工所運動をしよう。IT化を推進しよう」というわけだ。
 実によくある説だ。多くの古典派経済学がこの説を唱える。昔は「合理化」という言葉で推進され、最近は「IT化」という言葉で推進されるが。

 では、この説は、正しいだろうか?
 統計を見ると、たしかに、好況期には生産性が向上している。そういう統計結果がある。
 しかし、上の説は錯覚だ。では、正しくは? 「好況期には生産性が向上する」というのが正しい。
 つまり、相関関係は成立するのだが、因果関係が逆である。
   × 生産性の向上があるから → 好況になる
   ○  好況であるから      → 生産性の向上がある

 ここで言う生産性とは、「金額的な生産性の向上」である。(一方、前日[など]で述べた生産性の向上は、特に断っていないが、「技術水準の向上による、量的な生産性の向上」であることが多い。)
 一般に、好況期には、企業も労働者も所得が上昇する。そのことで、同じことをしていても、生産性が向上することになる。たとえば、ウェイトレスは、同じことをしていても、時給が5%ぐらい上がるので、「生産性が5%上昇した」と判定される。一方、景気が悪化すると、時給の上昇が止まるので、「生産性の上昇が止まった」と判定される。……それだけのことだ。
 だから、「生産性の向上で好況になる」という説は誤りで、正しくは、「好況期には生産性が向上する」となる。
 二つの現象に相関関係があるときに、因果関係の方向を間違えてはならない。

( ※ 本項と同趣旨のことは、前にも述べた。 → 需要統御理論簡単解説


● ニュースと感想  (3月14日)

 「シフトJIS や unicode などのうち、どの文字コードを使うべきか?」という話。
   → Open ブログ 「文字使用の指針2」


● ニュースと感想  (3月14日b)

 「生産性の向上の嘘」について。
 「生産性の向上で経済成長」というのが嘘であることは、5年前にも述べたことがある。そちらを参照してほしい。古い話だが、再読するといいだろう。
  → 10月14日 〜 (計4項目)
  → 第2章「IT化」 (これは最近の話とダブる。特に読まなくても良い。)


● ニュースと感想  (3月15日)


 「いわゆる康熙字典体(正字)とは何か?」という話。
   → Open ブログ 「いわゆる康熙字典体」


● ニュースと感想  (3月15日b)

 「賃上げと国際競争力の嘘」について。
 トヨタの賃上げが値切られて、他社並みの 1000円に収まった。その理由が「賃上げをすると国際競争力が弱まるから」だという。(各社報道 2007-03-14 )
 こんな見え見えの嘘をつくトヨタもどうかしているが、見え見えの嘘を報道するマスコミもイカレているし、労組もイカレている。
 国際競争力? トヨタは世界最強でしょう。世界最強のトヨタが国際競争力の心配をするとしたら、他社はどうすればいいんだ? たとえば、米国のGMは「トヨタよりも国際競争力があります」とでも主張すればいいのだろうか? 日本でも、日産が「うちはトヨタよりも国際競争力があります」と言えばいいのだろうか?
 馬鹿げている。何が何であれ、トヨタについて当てはまらないのが「国際競争力の不足」だ。ありもしないものを理由にして、賃上げ抑制の理屈を作るなんて、頭がイカレているとしか思えないし、それを信じる連中はもっとイカレている。日本中、狂っているとしか思えない。

 特に、「生産性の向上で賃上げ」なんてことを主張する古典派経済学者は、この現実を理解した方がいい。抜群の生産性を上げて、抜群の利益を上げているトヨタからして、賃上げなんかろくにやらないのだ。つまり、生産性の向上があっても、その成果は、企業の内部留保となるので、労働者には回ってこないわけだ。
 言い逃れをして、「トヨタ以外なら成立する」なんて言ってもダメだ。現実を見ればわかる。「企業は豊かで国民は貧しい」となる。つまり、日本全体で、「生産性の向上の効果は、労働者にろくに配分されない」というふうになっている。
 そして、その結果として、総所得と総需要が縮小し、総生産も縮小する。だから、いつまでたっても、派遣やアルバイトはなかなか減らない。少しは減っているかもしれないが、微々たるものだ。今のペースでは、若手が正社員になれるのは、彼が退職年齢に差しかかるころだ。
 気違い国家とは、こういうものなんですかね。


● ニュースと感想  (3月16日)

 「ボルトの正しい使い方」という話。
 全日空の飛行機で前輪が開かなかった事故の原因は、「ボルト脱落」だったので。
   → Open ブログ 「塑性域角度法」


● ニュースと感想  (3月16日b)

 「日興コーディアルと東証」について。
 東証が日興コーディアルの上場廃止をやめると決めた。この話題は、面倒臭くなったので、論じるつもりはなかったが、リクエストがあったのでちょっとだけ書く。
 朝日の朝刊に、「東証の方針はあやふやだ」という趣旨の記事があったが、これがまあ、私の見解に近い。もっとはっきり述べると、私の見解は以下の通り。
 上場廃止をやめる、という結論自体は正しい。しかし、その理由がダメだ。理由は「悪事があったと断言できるだけの根拠がない」という趣旨だったが、そんなのは理由にならない。だったらライブドアだって、まだ裁判で係争中なんだから、「疑わしきは罰せず」の原則に従って、上場廃止にはならないはずだ。西武やカネボウは、裁判が出るまでもなく、被告側が罪を認めた。ライブドアの場合は、白黒がはっきりしていないのだから、根拠不十分で、上場廃止には至らないはずだ。
 要するに、日興コーディアルが上場廃止にならないという結論は正しいが、その根拠はダメだ。なぜならその根拠をライブドアに適用すると、ライブドアもまた上場廃止にならないからだ。
 つまりは、「筋が通らない」ということ。ま、東証は、先に結論を出して、そのあとで理屈を付けるから、筋が通らなくなる。ライブドアも日興も、先に結論があった。だから、筋の通らない論旨になる。

 [ 付記1 ]
 そう言えば、16日にライブドアの判決が出ますね。
 数日前に、ホリエモンへのインタビューがある。
   → 朝日の記事
 この人、人間に対する理解ができていませんね。それが致命的。理系のことはわかっているようだが、人間というものを理解できていない。
 「僕はまだ裁判所を信頼しているから、ついついそこまで言ってしまった。」
 「(判決は)答えが出るってこと。のどに詰まっている小骨が抜ける、みたいなもんですよ。もちろん、きれいな抜け方をするって思ってるし。」
 というのも、みっともない。裁判所を信頼している時点で、おしまいですね。「誰もが錯覚しているのだ」という真実に気づかないから、錯覚した相手を信じる。錯覚を解きほぐそうという方針を立てられない。……かわいそうに。
 だいたい、検察を信頼しないが裁判所を信頼するって、どこから来る発想なんだろう? どっちも権力機関の一部であり、同じ穴のムジナなんだが。いや、違う穴のムジナかな。
( ※ 過去の裁判長の言動を見ると、ホリエモンには「この悪党。シラを切らずにさっさと吐け」という言動ばかりをしている。中立性を逸脱している。私だったら、こんな裁判長を信頼することはない。……ホリエモンはどうしてこんな裁判長を信じるんだろう? まったく不思議だ。やっぱり、人間性を見抜けないせいですかね。宮内が言っていた。ホリエモンは人を見る目がない、と。)

 [ 付記2 ]
 法律専門家による予想がある。いずれも、ホリエモン有罪。
  → zakzak
 どうしてこうなるか? 事実関係を争わなかったからだ。
 ホリエモンが主張したのは「私は知りません」という知らんぷりだけ。(もちろん嘘だ。)
 弁護士が主張したのは、検察側の法的手段の不当さだけ。
 結局、どっちにしても、検察側の主張を真っ向から否定しなかった。つまり、検察側の主張は、誰からも否定されなかった。「錬金術」という言葉も否定されなかった。否定されないのだから、裁判官がこれを採用するのは、法的に当然だ。
 私が裁判官だったとしても、これじゃ、有罪にするしかないですね。何しろ被告側が正面から反論しないんだから。「知りません」と言われても「嘘つけ」と思うだけだし、「検察側の法的手段が不当だ」と言われても、「あ、そう」と思うだけだ。細かな法的論議はどうでもいい。肝心なのは六千億円を盗んだかどうかだけだ。あるいは、市場に莫大な損失を与えたかどうかだけだ。検察側は「そういうことをやった」と主張した。被告側は反論しなかった。裁判官としては、取るべき結論は一つしかない。誰も「犯罪事実がないこと」を主張しないのだから、「犯罪事実はあった」と認定するしかない。そのなかで、被告が「私のせいじゃない」と言ったって、ダメである。
 自分で墓穴を堀った被告。勝手に墓穴に飛び込みなさい。

( ※ ついでに言えば、物事の本質は、どこにあるか? 六千億円の損失という経済問題を、机上の法律問題で処理しようとした、弁護側の対応のまずさにある。経済音痴の弁護士が、経済問題を法律で扱えば、物事の本質が見えなくなる。表面的な法律論だけで済ませようとする。── こういうふうに本質を見損なうから、表面だけの論議となり、検察側に押されっぱなしになるのだ。何事も本質を見失えばダメだ、ということ。)


● ニュースと感想  (3月17日)

 「ライブドア判決」について。
 ホリエモンに実刑判決が下った。懲役二年六カ月。( 2007-03-16 )

 (1) 感想
 この結果は、(実刑という点を除けば)だいたい私や世間の予想通りだろう。前項の zakzak の識者の予想とも合致する。
 ただ、証取法違反の初犯で実刑が言い渡されるのは極めて異例だということから、弁護側としては「完敗」「大敗北」「必要以上に大きな罪を食らった大失敗」と反省するべきだろう。
 弁護士は判決後に、「不当判決だ」と述べたが、見苦しいことこの上ない。「負けました」と正直に述べるべきだ。また、「なぜ実刑なのか理解できない」と述べた。ふん。理解できないのは、あんたがバカだからでしょう。また、裁判に負けたのは、あんたが無能だからでしょう。「私の無能が理由で負けました。ごめんなさい」と謝るべきだ。また、今になって「常軌を逸している」と裁判所を批判するより、最初からそのことに気づいて対処するべきだ。負け犬の遠吠えはみっともない。事前に「勝訴間違いなし」などと豪語した自信はこっぱ微塵になったのだから、ここは素直に自己の敗北を認めるべきだろう。
 ホリエモンも同様だ。「検察を信頼できない」と述べたくせに、検察出身のヤメ検を雇う。いわば、悪魔を批判しながら、元悪魔を雇って、元悪魔に自己の命運を託す。どういう頭をしているんだ、この人は? 頭が倒錯しているとしか思えない。
 ヤメ検には決定的な限界がある。それは、「検察組織そのものをぶっつぶすことはできない」ということだ。あくまで小手先の法律論で戦うだけだ。検察組織そのものをぶっつぶすような論議をすることはできない。決して。実際、そういう論議は、まったくしなかった。あくまで小手先の法律論だけだった。「検察は錯覚で動いた」と述べて、検察を全否定することはできなかった。
 私の見解としては、何度も言ったとおり。「弁護士が無能だから負ける」ということだ。こんな弁護士(ただの法律オタク)を雇った時点で、戦う前に負けている。いや、戦いを放棄している。
 ホリエモンの真の敗因は、ネットばかり見ていて、本を読まなかったことだ。真実に気づかなかったことだ。「ライブドア・二重の虚構」を読んで、真実に気づいておけば、こんな悲惨なことにはならなかっただろうに。自業自得と言うべき。
 私としては、同情もしませんね。「オウンゴールだな」と思うだけだ。下手で負けたのなら同情の余地もあるが、オウンゴールした人に同情することはありません。「自殺したけりゃ勝手に自殺しろ」と思うだけ。「監獄に入りたけりゃ勝手に監獄に入れ」と思うだけ。……問題は、自分は監獄に入ろうとしているくせに、自分で自分のやっていることを理解できないことだ。自分でロープに首を突っ込みながら、自分が何をやっているのか理解できないことだ。その愚かさだけは、同情に値するが、そもそも、本を読まないのが理由なんだから、これも同情の余地はないね。

 私としてはかねて「弁護士がバカだから負ける」と予想していたが、これに対して、「弁護士は利口だからホリエモンはきっと勝つ」と予想していたホリエモン・ファンもいたようだ。こういうふうに夢ばかり見ていると、現実では痛い目に遭う、ということ。夢ばかり見ていないで、私が指摘したように修正すれば、勝つこともできたのだが、「これで勝てるさ」と夢ばかり見ていたから、失敗したわけだ。
 何事も、自己反省が大事。自惚ればかりしていると、必ず失敗する。教訓にしましょう。甘いことばかり言う側近をそばに置くと、大失敗しますよ。耳に痛いことを言ってくれる人をそばに置いて、その忠告に耳を傾けた人だけが、失敗を免れることができる。
 で、ホリエモンは? 最初から最後まで、だまされた。
  ・ 村上ファンドにだまされた。
  ・ フジテレビにだまされた。
  ・ 検察にだまされた。
  ・ 弁護士にだまされた。
 最後まで弁護士の言うことを聞いていて、だまされ続けたのが、真の敗因だ。忠告を聞く耳をもたなかったせいですね。
 なお、ホリエモンの実刑は、ほぼ確定済み。というのは、二審もこのバカ弁護士が担当するらしいからだ。( → zakzak )ふうん。それじゃ、同じことを繰り返すだけですね。
 過ちて改めず、これを過ちという。……ホリエモンのためにある言葉。
( ※ いろいろ思うに、ホリエモンというのは、良く言えば即断即決、悪く言えば思量不足。直感だけで決めて、じっくり考えることができない。そういうガキは多いが、その代表者かも。思考のスピードだけは速いが、出した結論は大はずれ。逮捕されなくても、いつかは破綻していただろう。)

 (2) 正しい方針
 では、弁護士は、どうすればよかったか? 「真実を訴える」という方針を取ればよかった。
 ただし、「真実を訴える」という方針を取った場合、「小さな罪が大きく錯覚された」ということを訴える必要がある。そのためには、自己の小さな罪を認める必要がある。
 ホリエモンやバカ弁護士みたいに、「完全に潔白」を主張する場合、真実を訴えることはできない。当然、虚偽を主張することしかできない。で、その虚偽を見抜かれて、「真っ黒」と断定される。
 これが今回の裁判の図式。当然、オウンゴール。真実を訴えず、虚偽を訴えた、という根本的なミス。

 (3) 被害と犯罪
 判決では、多額の損害がすべてライブドアの責任だと認定されたようだ。引用すると、こうだ。
 「投資家への配慮や上場企業の経営者としての自覚は、みじんもない。公判でも多額の被害を受けた株主や投資家に謝罪の言葉を述べることもなく、反省の情は全く認められない」( → 読売新聞
 多額の被害はライブドアの責任だとされた。そんなことは裁判では一度も論議されなかったが、勝手に最大の罪が認定されてしまった。殺人罪で言えば、「殺人をした」という事実は論証されないまま、ピストルを買ったことが銃刀法違反であるというような形式的論議ばかりがなされただけだ。
 こうして、実質的な裁判なしに、死刑にも相当する判決が下ったわけだ。とんだ茶番ですね。

 (4) エゴイズム
 その一方で、ホリエモンの態度もまた、ピエロだ。
 そもそも、六千億円の損失こそ、核心である。なのにホリエモンはそこをまったく見ようとしなかった。自分が助かりたいとだけ考えて、何十万人もいる多くの株主のことをまったく考えなかった。
 これは芥川龍之介の「蜘蛛の糸」と同じである。「自分だけ助かりたい」「自分だけよけりゃいい」という発想。そのせいで、まわりのことを見失い、あげく、真実を見失う。だから、そういうエゴイズムの発想にとらわれた時点で、自分で地獄に堕ちてしまうわけだ。
 「蜘蛛の糸」では、お釈迦様が糸を切ったように見えるが、実は、蜘蛛の糸を切ったのは、すがりついていた悪人自身である。彼が我欲にとらわれたとき、彼の我欲の重みで、蜘蛛の糸が切れた。
 ホリエモンもまた同じ。莫大な株主の損失のことを見失ったとき、心が狭くなり、自分で地獄の穴に落ちることになった。自業自得。
 もし彼が、多くの株主の被害に共感できる優しさがあれば、広い視野を持ち、真実に気づいたはずなのに。

 (5) 真相
 では、真相は? それを知るには、判決を見るといい。
 (i) 「粉飾した業績を公表して株価を不正につり上げて、ライブドアの企業価値を実態よりも過大に見せかけ……」
 (ii) 「一般投資者を欺き、その犠牲の上に立って企業利益のみを追求した犯罪」

 このうち、(i) は正しい。逆に言えば、この (i) を全面否定したところに、弁護側とホリエモンの失敗があった。実際にあったことをないと偽るのだから、バカか悪党かどちらかであろう。私はバカだと思うが、裁判所は悪党だと認定した。
 一方、(ii) はまったく正しくない。これは経済学的に狂った発想である。「一般投資者を欺き」というのはいい。しかし、「その犠牲の上に立って企業利益のみを追求した」というのは、理屈になっていない。「企業利益のみを追求した」というが、企業利益とは株主利益のことだ。企業は株主のものなのだから。要するに、この判決が主張しているのは、「自分で自分の富を奪ったことが悪だ」ということだ。馬鹿丸出し。(この件、詳しくは拙著「ライブドア・二重の虚構」を参照。)
 とはいえ、このことは、経済学的に論じたときのみにわかることだ。弁護側は何も論じなかったのだから、このことは何ら説明されなかった。

 では、真相は? 
 ライブドアの不正はあった。だが、それによって損失を受けた人はいない。それによって得をしたのは株主全体であり、それによって損失を受けたのも株主全体である。ゆえに、株主は全体としてみれば、損得はない。( → 拙著「ライブドア・二重の虚構」。)
 また、不正によって企業価値が膨張した分は、50億円の不正の分だけであって、会社の全体が虚構であったのではない。「すべてが虚業だった」というわけではなく、50億円の不正に相当する部分だけが虚構だった。しかも、その虚構は、次年度の決算が出た時点で、消滅してしまった。(不正なしに 150億円の黒字を出したから。)
 要するに、不正はあるにはあったが、ごく小さな不正だった。なのに、その不正を過剰に大きいものだと思い込んで、小さな不正を、巨大な不正(会社全体の不正)だと思い込んだ。比喩的に言うと、小さなホクロがある人を見て、「この人は黒人だ」と勘違いした。── そういう錯覚があったわけだ。
 だから、その錯覚を指摘すれば、真相がわかる。ところがこの被告はどういうわけか、「私にはホクロなんかない。ひとつもない」と主張した。しかるに、調べてみると、ホクロはあった。かくて「この被告は嘘つきだ」と判定された。また、弁護士はホクロを指して、「このホクロは白い」と言い張った。ここでも「その認識は却下」とされた。
 要するに、「白か黒か」という問題ではなく、「小さな黒か大きな黒か」という問題だった。それが真相だ。小さなホクロぐらいなら、多くの人がもっているのだから、いちいち「ホクロゆえに有罪」ということにはならない。そう主張すれば良かった。なのに、被告と弁護側は、あくまで「ホクロなんかない」「ホクロは白い」と言い張った。……かくて、自分で自分の墓穴を掘った。

 (6) 解明
 事件から一歩離れて、社会全体を見てみよう。このライブドア事件とは、どんな事件だったか? バカな被告と弁護士の茶番だったか? ピエロのやる喜劇だったか? ま、個別に見るとそうだが、社会的に見れば別の理解ができる。
 これはつまりは、「魔女裁判」だったのである。「こいつは魔女だ」と決めつけてから、有罪を宣告する。実際にやったのは、誰でもやっているようなこと(マッチで火を付けるようなこと)なのに、「こいつは魔女だ」と決めつけて、そのことの証拠として、マッチで火を付けるようなありふれたことを理由とした。確かに、マッチで火を付けたという事実はあったのだが、それが社会的に莫大な損害をもたらしたということはない。なのに、ありもしない被害があったと錯覚した。本当は、被告がマッチで火を付けたとき、「魔女だ、魔女だ」と騒いだ人が大被害をもたらしたのだが、すべてを被告のせいにしてしまった。
 これが「魔女狩り」であり、その裁判が「魔女裁判」だ。

 魔女裁判では、「私はマッチで火を付けなかった」というように論じても無駄だ。裁判のなかで論争をしても無駄だ。魔女裁判を解決するには、「この裁判そのものが魔女裁判だから無効だ」と示すしかない。
 そのためには、次の二点を指摘する。
 「魔法などは使わなかった」(……錬金術などはなかった。)
 「他にも同様のことをしている人は見逃されている」(……錯覚の指摘。)
 この二点が必要だ。前者は、経済的な説明であり、後者は、社会心理学的な説明だ。
 そうだ。必要なのは、経済的説明と、社会心理的説明だ。魔女裁判を無効化するには、この二点のみが有効だ。
 一方、法的論議は、魔女裁判の内部における論議だ。そんなことをいくらやっても、魔女裁判自体をひっくり返すことはできない。
 結局、法律バカが法律にとらわれたところに、真実を見抜けなかった理由がある。策士、策に溺れるという。法律バカ、法律に溺れる。

 教訓。
 何事も、自分の専門ばかりにとらわれていると、真実を見抜く広い視野を失う。真実を見抜くには、広い視野が大切であり、自分の専門ばかりにとらわれていると、自殺行為をしても気づかないものだ。
 ともあれ、法律バカにもならず、ITバカにもならず、広い教養を培うことが大切だ。


● ニュースと感想  (3月18日)

 「ライブドア判決・続き」について。
 次の参考記事がある。
 ネットでは「日興の方が悪質」 ホリエモン実刑に批判
 06年1月の逮捕時にはネット上の掲示板やブログで、ホリエモンを罵倒するカキコミと、応援のカキコミが入り混じり騒然となったが、今回は「ネット上の空気」が当時とかなり違う。「日興との比較で不公平だ」といった批判が多かった。
 ヤフーのQ&Aサイト「知恵袋」にこんな質問が出た。
 「日興コーディアルとライブドア、検察の動きの差は何? なんかありそうですね?!」
ベストアンサーに選ばれた回答は、
 「ライブドアの起訴容疑と比べても遥かに巨額(粉飾の疑いが300億円)です。 (会計操作の)手口は似てますが、ライブドアの手口は単純でSPCを連結外にして子会社株式の売却益を利益計上しただけですが、日興の手口は、そこにEB 債を組み合わせた、より高度で複雑な手口です」

 橋下徹弁護士は07年3月16日、テレビ朝日系「スーパーモーニング」で、「バランスを欠いた判決だ!」として、こう吼えた。
 「(罪に問われたのは)有価証券報告書の虚偽記載ですよ。政治資金収支報告書の虚偽記載はどうなってるんだ、ということですよ。世の中、バランスがあって、こんな事で、実刑で、……」
( → J-CASTニュース
 私の見解は? 
 それらの主張はまさしくその通りなんだが、問題は、弁護士が法廷でそう主張しなかったことだ。裁判所の外でいくら正論を吐いても無駄だ。裁判所の中で正論を主張しなくてはならない。なのに、弁護士は、そうしなかった。……そこに真の敗因がある。
 橋下徹弁護士にもがっかりだ。あなたは弁護士でしょう。弁護士ならば、「真実は裁判所の中でこそ主張するべし」と言えばいい。なのに、そうしない。同業の仲間を批判できないまま、裁判所を批判している。批判するべき対象を間違えている。

 仮に、裁判所が正しい結論を出したら、どうなる? 弁護側が何も主張していないことを、裁判所が勝手に認定することになる。これは違法行為だ。
 裁判官の務めは、自力で真実を見出すことではない。原告側と被告側の双方の主張のうち、妥当な方を選ぶことだけだ。双方がどちらも虚偽を語っているときに、勝手に真実を取ることは、違法行為だ。本件では、裁判所が真実を採用することは、違法なのだ。ゆえに、裁判所が虚偽を採用したことは、当然である。裁判所は全然、間違ったことをしていない。
 間違っているのは、真実のかわりに虚偽を主張した被告と弁護士の両名だ。社会に溢れている声を聞こうとしなかった両名だ。この両名が悪いのであって、裁判所が悪いのではない。批判されるべきは、裁判所でなく、この両名だ。特に、ヤメ検弁護士だ。
 橋下徹弁護士には、けっこう期待していたのだが、案外、頭が悪いようだ。というか、同業の仲間を批判できないわけで、肝っ玉が小さい。がっかり。

 最後に、ホリエモンに言っておくことがあるとしたら、忠告を一つ。
 「女と酒と美食をたしなむ暇があったら、を読め」
 まったく、何のためにムショからシャバに出たと思っているんだ? 女遊びをするためだと思っているんだろうか? 情けない。
 せっかく麦飯でダイエットして、精神も肉体も健全になったと思ったら、あっという間に元の木阿弥。どうも、三カ月じゃ足りなかったみたいですね。やはり、二年六カ月必要なのかも。裁判官に感謝しましょう。   (^^);


● ニュースと感想  (3月18日b)

  無料写真のプリアというものがある。
   → Open ブログ 「プリア(無料写真)」






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「泉の波立ち」
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