[付録] ニュースと感想 (124)

[ 2007.11.20 〜 2007.12.23 ]   

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● ニュースと感想  (11月20日)

 「ビル・エモットのエセ論理」について。
 ビル・エモットと言えば、英エコノミスト誌編集長として経済界では有名だが、この人が朝日に寄稿している。次の趣旨。(朝日・朝刊・国際面 2007-11-19 )
 「パキスタンは重要である。日本にとっては遠い彼方の出来事に思えるかもしれないが、重要である。その重要性は、第二次大戦直前の、ヒトラーによるチェコ侵略に匹敵する。それを遠い国の出来事と見なして看過したことから、第二次大戦が起こった。その愚を繰り返してはならない。」
 「では、どういうふうに重要か。それは、パキスタンが、アフガンの最前線だからである。ここを突破されれば、テロが世界に波及するだろう。9・11のNYテロが再現するかもしれない。また、放置すれば、パキスタンが中国に傾斜しかねない。それは最悪だ。だからこそ、パキスタンは重要なのだ」

 いかにももっともらしい理屈だ。これは、参考になる。何の参考に? 論理のペテンの参考だ。
 人を論理で言いくるめるための詐欺師になるためには、こういうインチキ論理を使うといい。たいていの人は、あっさりだまされる。まことに見事な論理ペテンだ。

 では、どこが論理ペテンか? 指摘しよう。
 「重要だ」という点はいい。しかし、「どういう意味で重要か」ということの意味を取り違えている。原因の指摘はいいが、結果の指摘が狂っている。
 比喩的に言おう。青酸カリというのは、重要な物質である。なぜ重要かというと、工業関係などではよく使われる平凡な物質でありながら、人命を奪う危険性をもつからだ。「取扱注意」という意味の重要性である。
 しかし、これを逆の意味に取り違えることもできる。「ビタミンは人間にとって重要です。青酸カリも重要です。だからビタミンと同様に、青酸カリを摂取しましょう」と。……これは論理のペテンだ。
 ビル・エモットも同じことをやっている。パキスタンは「要衝の点」という意味では、重要だ。また、「テロ防護のためにも重要だ」というのもいい。ここまではいい。
 しかし、その点ばかりを強調すると、次の結論になる。
 「(アルカイーダによる)テロの防護のために、パキスタンを支持しよう。軍事独裁政権が民主主義を破壊したが、テロ防護のためには、この軍事独裁政権を擁護するべきだ。テロ撲滅のためには、やむを得ない」

 しかしながら、これは、かつてのアメリカの論理と同じである。
 「(イランによる)テロの防護のために、イラクを支持しよう。軍事独裁政権が民主主義を破壊したが、テロ防護のためには、この軍事独裁政権を擁護するべきだ。テロ撲滅のためには、やむを得ない」
 で、その論理のもとで、フセイン・イラクを増長させた。そのあと、「テロはフセインのせいだ」というメチャクチャな理屈をこねあげて、「イラクには大量破壊兵器が隠されている」という嘘をついて、イラクに侵攻した。あげく、イラクはメチャクチャとなり、テロが大量にのさばる結果となった。そして今では、「テロ撲滅のためにイラク駐在は正しい」と主張している。
 
 気違いじみている。比喩的に言うと、次の通り。
 「日本は平和だった。ところがあるとき、独裁者が出現した。『こーぞー改革とITで景気回復』と言って、ヒトラーのような嘘八百を振りまいて、独裁体制を確立した。軍をも握って、軍事独裁政権を確立した。日本国民は悲鳴を上げた。『民主主義のアメリカさん、助けてください!』と頼んだ。しかしアメリカは助けてくれなかった。『この軍事独裁政権は、北朝鮮によるテロの撲滅のためには必要だ。この軍事独裁政権を支持する』と言って。イギリスの編集長も同意した。『日本は重要である。ゆえに、この軍事独裁政権を支持するべきだ』……こうして日本の軍事独裁政権は続いた。ところがあるとき、この軍事独裁政権は、『大統領の馬鹿野郎』と悪口を言った。とたんに、米国は怒り狂った。『この軍事独裁政権は、テロリストだ』と主張して、嘘八百の非難をした。『こいつは核兵器を持っている。そいつで米国に津波を起こした。実際に米国には津波の被害が起こった。ゆえに、このテロリストを打倒しなくてはならない』と。かくて、米国は日本に侵攻した。日本はすっかり荒廃した。そのあと、米国による傀儡政権を打倒するために、国民は立ち上がって、武装蜂起した。すると米国は、『こいつらはテロリストだ。ほらみろ、やっぱりテロリストがいるぞ。おれたちの主張したとおりだ。日本はもともとテロリストの国だ』と主張した。こうして、日本はいつまでも荒廃し続けた。……元はと言えば、アメリカが軍事独裁政権を放置したのが理由なのだが」

 返す返すも残念なのは、同じエセ論理を米国に適用できないことだ。もしできれば、インディアンを大量虐殺して侵略した欧米系の米国人を、こぞって「テロリスト」として追放することができるのだが。

 結論。
 (1) テロリストが国家全体を握れば、テロリストが正義の味方になる。(米国建国)
 (2) テロリスト国家(米国)は、他のテロリスト国家を容認しない。
 (3) テロリスト国家があっても、米国の味方であれば、支援する。
 (4) テロリストや軍事独裁者に民主的な国民が踏みにじられた場合には、軍事独裁政権を支援する。その軍事独裁政権が米国の味方であれば。
 (5) 軍事独裁政権を支援するためには、名分がいる。そのために、正当化するための、エセ論理を使う。
 (6) 愚かな国民は、エセ論理に気がつかない。


● ニュースと感想  (11月20日b)

 英語版の Google で用語検索すると、地図情報が表示されることもある、という話。
   → Open ブログ 「Google と地図情報」


● ニュースと感想  (11月21日)

 「ヒューマン・エラーと訴追」について。
 航空機の事故について、「刑事訴追よりも原因究明を優先するべきだ」という見解がある。(朝日・朝刊・特集 2007-11-20 )
 これはよく言われる意見だが、まとめると、次の通り。
 「刑事訴追を目的として、警察が事故を究明すると、被疑者である航空会社は、原因究明に協力しない。自分を有罪にするための調査に協力するはずがない。これでは事故が解明されない。だから、刑事訴追よりも、原因究明を優先するべきだ。警察がやるよりも、事故調査委がやるべきだ。こうしてこそ、原因究明がなされ、事故の予防ができるようになる。」
 「そもそも、航空機事故では、故意の怠惰によって事故が起こったのではない。しきりに真面目にやっているのだが、人間はどうしてもミスをするものだ。ヒューマン・エラー。これを前提として考察するべきだ。これに対して刑事訴追をするのはおかしい」

 そこで、どうおかしいのかを、説明しよう。
 だいたい、人間というものは、誰もがミスをする。ミスをしない人など、一人もいない。多かれ少なかれ、ミスをするものだ。たとえば、店員ならば、釣り銭を間違える。料理人ならば、調味料を間違える。……そういうことは、誰もが少しはやっている。
 では、なぜ、多くの人々は責任を問われないのか? それは、責任が小さいからだ。釣り銭とか、調味料とか、その程度の責任は、ごく小さい。だからこそ、ミスがあっても、責任は看過される。
 一方、航空機事故では、責任は大きい。だからこそ、ミスがあると、責任は看過されない。
 ま、ここまではいい。だが、ミスそのものは誰もがなすのに、責任の大きな場でミスをした人だけが責められるとしたら、どうなるか? 責任を負う人がいなくなってしまう。特に、刑事責任を問われるようだと、そうだ。

 ここまで述べれば、別のこととの類似性に気がつくだろう。それは、産科医の問題だ。ここでも、「誰もがミスをするのに、産科医ばかりが刑事責任を問われる」という自体になっている。というのは、産科医ばかりが危険な仕事をするからだ。というのも、お産ばかりが、極端に危険であるからだ。
 この危険性は、医師の力量不足によるのではなく、妊婦のお産にともなう危険だ。だからこそ、医師が必要とされる。にもかかわらず、お産にちょっとした注意不足やら解釈不足やらがあって、妊婦が死んだあとで、非難されることがある。
 たとえば、「もしこうしておけば助かったかもしれないぞ」なんていう別人の解釈が、いわば「後出しじゃんけん」で出る。で、「ミスをした医師は殺人者だ」などと言い張って、医師を刑務所にぶち込もうとする。
 こんなことでは、危険なお産を負担する医師が、いなくなる。……と書くと、まるで私のよく書く誇張や冗談みたいだが、まさしくそれが現実なのだ。誇張なしで。

 まとめ。
 人間は誰しもミスをする。ヒューマン・エラーは必ず起こる。そのことを前提として、社会はヒューマン・エラーに対処するべきだ。
 これに対して、「事故を起こした人を罰すれば事故が減る」という処罰主義(警察の発想)を取ると、事故が減るどころか、逆の効果が出る。事故を隠す人が出たり、業務そのものを放棄する人が出たりする。いずれにしても、社会そのものがおかしくなる。これでは逆効果だ。
 「信賞必罰」というのは、故意の行為に対しては成立する。しかし、ヒューマン・エラーは、故意ではない。ここに対して、処罰主義(警察の発想)を取るのは、根本的に間違った方針である。
 にもかかわらず、社会はそのことに気づいていない。航空機事故については気づいても、列車事故については気づきにくいし、産科医療についても気づきにくい。……特に、「これらに共通するような間違い原理がある」と気づいている人は、皆無に近い。(私と読者以外はいないようだ。)
 かくて、現状では、社会はどんどん崩壊していく。

 [ 付記 ]
 なお、逆方面からも述べておこう。
 「ヒューマンエラーについてはすべて免責せよ」ということは成立しない。たとえば、普通の交通事故ならば、自動車で人を殺した人は、免責されない。
 だから、「ヒューマンエラーについてはすべて免責せよ」ということは成立しない。あまり極端なことは言えないわけだ。
 警察というのは、通常の交通事故の延長上で物事を考えるから、航空機事故や産婦人家事故も、「犯人を捕らえよう」という発想になる。
 だが、それはあながち責めるべきではない。警察というのは、「骨を見たら、走っていって、くわえる」という反射行動のある犬のようなものである。犬が犬らしくふるまったからといって、犬を責めるべきではあるまい。
 大事なのは、犬を責めることではなく、犬の飼い主が犬を正しく調教することだ。「この骨は拾っていいが、この骨は駄目だ」とか、「こういう人間には噛みついてもいいが、こういう人間には噛みついてはいけない」というふうに。……そこでは、飼い主の調教が大事である。
 そして、このような飼い主の責任こそ、社会に求められていることである。具体的にどうすればいいかは、前に述べたとおり。 ( → 11月19日b 「知事の声明」)

 [ 参考 ]
 他にも、過去記事がある。
  → 数日前の記事 ( 11月18日
  → 昔の記事 ( 9月07日 …… 対策法 )
  → 昔の記事 ( 2月05日b
    一部抜粋(お産の危険性):
    “ 出産というのは実に危険なものであって、死ぬこともあるし、体をこわすこともある。女性は自分の命を削って、次の命を生み出す。単なる「産む機械」ではない。自分を代償としてまで産み出そうとする、崇高な存在なのだ。”


● ニュースと感想  (11月22日)

  Google の検索は、コンピュータで自動処理しているから、変なミスはないはずだ、……と思われている。だが、まるで人間がミスったような欠落がいくらかある。
   → Open ブログ 「Google 検索の欠陥」


● ニュースと感想  (11月22日b)

 「無駄な公共事業を止める方法」について。
 「景気回復のためには公共事業をすればいい」というのは、ケインズ派の経済政策。彼らは、「穴を掘って埋めるのでもいい」というメチャクチャを言い出すが、それを見事に体現しているのが「無駄な公共事業」だ。
 その代表例が、諫早湾の埋め立てだ。次の3点がある。
 要するに、この事業は、何もしないでつぶすのが一番正しい。それなら、過去の損失は残るが、将来の損失は生じない。ところが、一度始めた公共事業は止まらないから、どんどん無駄な公共事業が続く。
 ── ここまでは、おおむね、新聞記事を私流にまとめたもの。(読売・夕刊 2007-11-20 より。事実は新聞記事で、解釈・整理は私。)

 さて。以上のことから、結論を得よう。
 新聞記事では、次のような結論が出ている。
 「無駄な公共事業を止めるべきだ、と教えたのが、この公共事業の唯一の成果だった。ただし、そのことを教えてもらっても、実際には成果が上がらない。各県では無駄な公共事業をストップするための審議会などができているようだが、現実にその結論にしたがってストップされた公共事業はごく少ない。いったん決まったものを止めることは非常に難しい。というのは、省庁などが頑強に抵抗するからだ。省庁などが多大な資料を握っている。それをくつがえすには、審議会などの力は微力すぎて、なかなか根本からひっくり返すことはできない」
 ま、これはこれで、当然である。省庁が抵抗するのは当然だし、審議会なんかではとても太刀打ちできまい。
 で、新聞社としては、「米国の会計検査院のような巨大な組織で対抗せよ」というふうに案を示している。ま、それも悪くはないが、実現はまず無理だろう。というのは、米国の会計検査院のような巨大な組織は、ものすごい人員が必要となる。行政改革の推進が歌われている下りに、一挙に数千人もの人員を増やすなんて、不可能である。画餅。
 
 では、どうすればいいか? 私がアイデアを出そう。日本では日本流の方針を取ればいいのだ。いわゆる「あ・うんの呼吸」というやつだ。
 基本方針は、こうだ。
 「省庁などに対抗する組織を新設する(その組織が悪弊をつぶす)のではなく、省庁自身に公共事業を引っ込めさせる」
 これが日本流というものだ。

 米国ならば、敵と味方とが対立して、そこに第三の判定者が出て、白黒を決着する。「これにてきっちり論理的に解決」というわけだ。……ま、それはそれでいいのだが、日本でやれば遺恨が残るし、金も莫大にかかる。米国はやたらと金のかかる訴訟社会だが、それがベストというわけではない。
 日本ならば、腹と腹の探り合いで、うまく妥協点を探る。そして、その方が、はるかにコストは少なくて済む。

 たとえば、米国流では、こうだ。
 「おまえは間違っている! けしからん」
 「いや、おれは正しい! 間違っていない!」
 「よしよし。では、双方の意見を聞いて、私が判断を下そう」
 こういうふうにして、白黒をつける。……裁判で言えば、公開法廷ですね。

 一方、日本流では、こうする。
 「ねえ、あんた、探れば腹が痛くなるんだろう。知っているんだぜ」
 「ぎくっ。痛いところをつくなよ」
 「痛いところをつかないでやるからさ、そっちもちょっと言い分を引っ込めろよ」
 「そうかあ。しょうがないなあ。じゃ、このくらいでいい?」
 「ま、いいか。それなら許せるし」
 「じゃ、おたがい、このへんで手を打とうぜ」
 こうして、当事者同士が、目に見えないところで(料亭などで)腹の探りあいをして、落ちどころを決めて、灰色の決着をつける。……こういうのが、日本流である。
 ま、これはこれで、悪くない。少なくとも、「真っ黒だらけ」という現状よりは、格段にいい。
 裁判で言えば、「和解」ですね。

 では、日本流をするには、どうすればいいか? こうすればいい。
  1. 調査機関をつくる。(審議会など。ここまでは現状通り。)
  2. 省庁との協議の場をつくる。(腹の探り合いをさせる。)
  3. 最終的な決断を下す高度な部門をつくる。(知事などが直接的に決断をする。)
  4. 省庁の側が負けた場合には、省庁の側に大幅なペナルティを下す。
 最後の「ペナルティ」というのがキモだ。
 たとえば、諫早湾ならば、それを推進した担当者を、大幅に処罰する。左遷する。事務次官も局長も、平職員に格下げする。係長クラスには、減俸と戒告を下す。関与した全員に、大幅な処罰を下す。一種の「粛正」だ。
 現実には、この「粛正」が発動されることはない。いわば「伝家の宝刀」である。
 しかしながら、この「粛正」が発動されるかもしれないとなると、省庁は震え上がる。官僚はみな臆病だし、保身的だ。「省庁の利権を守る」よりも、「わが身を守る」方が大事だ。だから、何が何でも、「粛正」を避けようとする。そのためには、かつてなした誤りを、自主的に訂正する。自主的に訂正する限りは、何ら「粛正」はなされないからだ。

 かくて、上記の 4. が怖いので、上記の 2. の場で大幅に譲歩する。こうして、省庁の側から自発的に、「公共事業を引っ込める」という提案がなされる
 もしなされなかったら? そのときはいよいよ、「伝家の宝刀」をふるうがいい。特に、見せしめのために、いっぺんぐらいは実行した方がいいだろう。
 似た例で言うと、防衛省の元事務次官が接待を受けていたということで、大いに話題になっているが、こういうことが話題になると、当分の間、同じことをやろうとする人はいなくなる。だから、公共事業の場でも、「諫早湾を推進したせいで平職員に格下げになる」という例を、見せしめふうに見せつけてやればいいのだ。
 「ほら、あそこにいる掃除のおじさんを見てごらんよ。あの人は、元は事務次官だったんだよ。哀れだねえ」
 と。そういうのを見せつけてやれば、その後は、全員が震えあがって、無駄な抵抗をしなくなるだろう。

 ま、過去の分については仕方ないが、今後の分については、「無駄な抵抗をすると粛正されるぞ」という方針を打ち出すといい。
 で、その結果は? 「凡人への粛正がまかり通る暗黒社会」ではない。かわりに、「国民の金を食い物にするような悪の心が粛正されて、公務員は国民の下僕として働く」というふうになる。つまり、法律通りになる。
 で、そのためのコツは? 「悪との対決」という米国流の西部劇ではなくて、「日本では日本流でやる」ということだ。つまり、「自発的に悪を修正する」というふうに仕向けることだ。

( ※ 現状はどうか? 「ペナルティ」がない。「粛正」がない。どんなに大失敗をしても、それを推進した公務員が左遷されるようなことはない。一切、おとがめなしだ。……だからこそ公務員は、平気の平左で、過去の誤りをどんどん推進するのだ。そうする方が得だから。)
( ※ 要するに、現女のシステムは、「悪をした方が得」というふうになっている。だからこそ公務員は、せっせと悪をなす。ここで「悪をなす公務員はけしからん」と怒っても、無駄である。そういうシステムそのものを放置する方が悪い。問題は、政府組織のシステムそのものにあるのだ。)


● ニュースと感想  (11月23日)

 「防衛省の癒着」について。
 防衛省の元 事務次官が、山田洋行の元 専務と、癒着していた。このことが話題になっているが、このことだけに目を奪われるべきではあるまい。似たようなことは、他にもある。もちろん、防衛省で。
 それは、他の企業との癒着だ。特に、三菱重工(など)だ。防衛省の仕事は、一般に、市場原理によっていない。国際価格に比べて馬鹿高い値段で発注するのが普通だ。
  ・ 武器を国産化する必要がある。
  ・ 武器輸出は禁止されているから、輸出できない。国際競争力はない。
 この原理のもとで、技術的には低いものが、馬鹿高い値段で発注される。当然、すべては癒着関係にあって当然だ。そして、その代表が、三菱重工だ。
 ま、「汚職」「賄賂」というような露骨な癒着はないにせよ、「天下り」という形の癒着はあるはずだ。いちいち調べたわけではないのだが、あって当然だろう。……どこかのマスコミが調べませんかね? いや、調べようとしても、マル秘かな。
 
 具体的には、何を話題にしたいか? 防衛省の発注するものならば何でもいいのだが、特に目につくのは、次期戦闘機だ。ステルスせいが話題になっている。「心神」という名前のやつ。
 軍事オタクは、「国産ステルス戦闘機は素晴らしい」と浮かれているが、なーに、本当は、癒着の結果にすぎない。防衛省が天下りを強要して、それを受けた三菱が戦闘機を受注する。本当ならば、欧州のステルス機でも購入した方が、よほどコストパフォーマンスは高いのだが、それだと、三菱は儲からないし、防衛省も天下りを強要できない。
 かくて、国民の金を莫大に浪費して、ろくに役立たないステルス戦闘機に巨額をつぎこむ。で、それを見た軍事オタクが、「嬉しい、嬉しい」と喜ぶわけだ。
 これが今回の事件の奥に横たわる、巨額の癒着。


● ニュースと感想  (11月23日b)

 「開かずの踏切」というものがある。これを解決するために、物理的な方法が提案されることもあるが、情報工学的に「情報だけ」で解決する方法もある。
   → Open ブログ “「開かずの踏切」と最適制御”


● ニュースと感想  (11月24日)

 タミフルと異常行動の関係について、統計的な調査がなされた。だが、このような調査は、調査そのものが根本的に無意味である、と私は考える。
   → Open ブログ 「タミフルと異常行動」


● ニュースと感想  (11月24日b)

 「弱きを挫き強きを助く」について。
 「強きを挫(くじ)き弱きを助く」というのが正義の味方のポリシーであるし、私もそれをポリシーとしている。(「嘘つけ!」という半畳は入れないでほしい。 (^^); )
 それゆえ、逆のことをする連中を見ると、腹に据えかねる。特に、おのれの権力を用いて、そういうことをするやつには、いっそうそうだ。その代表が朝日新聞だ。

 朝日新聞(朝刊・社会面 2007-11-23 )に、次の二つの記事があった。
 前者は、公務員による犯罪である。「横領罪」と見なすことができるだろう。
 後者は、公務員(消防隊員)ではなく、民間人(消防団員 = 形式的には非常勤公務員)による犯罪である。ただし、横領罪のような刑法犯ではなく、ただの道交法違反である。当然、あちこちにある無数の道交法違反と同様である。(駐車違反よりは罪が重いが、酒酔い運転よりは罪が軽い。)

 この二つを比較しよう。
 責任度では前者が上だ。 (公務員 > 民間人)
 罪の大きさでも前者が上だ。 (横領罪 > 道交法違反)

 ところが、である。朝日新聞は、前者の氏名は秘匿して匿名としながら、後者の氏名は堂々と公表して全国版に掲載する。ま、東京本社版だが、日本の半分ぐらいの地域に、この「道交法違反」の罪で氏名を掲載されてしまったわけだ。

 つまり、朝日新聞の態度は、こうだ。
 「元市議は、政治権力をもつ権力者(強者)なので、警察は丁重に扱う。そこで朝日もまた、丁重に扱う。強きに媚びる」
 「消防団員は、民間人(弱者)なので、警察は横暴に扱う。あっさり逮捕して、実名を公表する。そこで朝日もまた、横暴に扱う。弱きを挫く」

 つまり、朝日の態度は、「弱きを挫き強きを助く」もしくは「弱きを挫き強きに媚びる」である。いやらしいですねえ。

 [ 付記 ]
 消防団員は、いったいなぜ、そんなひどい目にあったのか? 普通の人ならば、道交法違反では、(逮捕されることはあっても)全国版の新聞に氏名が暴露されるようなことはない。あなたが駐車違反をしようが、速度違反をしようが、酒酔い運手をしようが、その道交法違反の罪が新聞で公表されることはない。ではなぜ、この消防団員は氏名を公表されてしまったのか? 
 そのわけを言おう。それは、彼が善人であったからだ。善人ほど、ひどい目にあう。いや、間違えた。善人ほど、朝日はひどい目に遭わす。朝日のひねくれ精神のせいである。(善を挫き、悪に媚びる。)
 消防団員は、形式上、公務員である。非常勤公務員。ただし、これは消防活動をするための名目的なものであって、実質的には、ただのボランティアにすぎない。なぜなら、お金をもらえないからだ。もらえるとしても、スズメの涙程度。働きの分の弁当代とガソリン代ぐらい。あとは無償奉仕である。また、額には上限があるから、いっぱい働くと、足が出る。真面目にやればやるほど、赤字になる。……しかも、危険手当なんかは出ないから、命を賭けて消防活動をしても、ちっとも儲からない。もらえるものは、女房のお小言だけである。
 以上の話を読んで、「嘘だ」と思うのであれば、 Wikipedia を読んで確認してほしい。本当だとわかるはずだ。
 まとめて言おう。
 あなたが道交法違反をしても、あなたは朝日にいじめられることはない。しかし、あなたが善人で、奉仕精神にあふれ、「無償で命を賭けて消火活動をして、世の中のために尽くそう」と思うのであれば、あなたは朝日に攻撃されるだろう。ちょっとでもミスをしたら、朝日は鬼の首でも取ったように喜んで、「ほれ見ろ、こんなミスをしたぞ!」と大々的に報道するだろう。
 善を挫き、悪に媚びる。これが朝日の体質だ。……なお、この件は、今回が初めてではない。前にも本サイトでは、まったく同じ話題で、そっくりな例を述べたことがある。……ま、暇な人がいたら、検索してみてください。
 古い話なので、よく覚えていないのだが、こんな話。「どこかのおじいちゃんが、子供を車に乗せて遊ばせて上げたら、誘拐罪で騒がれた」という例です。
 ま、褒められたことではないが、日本中に実名をさらすほどのことではあるまい。そんなことをしたのは、朝日だけです。パパラッチみたいなものですかね。「良心を売り渡さないと、この商売はやれないね」というのが、パパラッチの告白だが、朝日も同様だ。


● ニュースと感想  (11月25日)

 捕鯨の是非については、侃侃諤諤の意見が世間をにぎわせているが、私なりに科学的な観点から、一つの見解を示す。
   → Open ブログ 「捕鯨の是非」


● ニュースと感想  (11月26日)

 「本サイトの政治姿勢」について。
 以前の「小泉の波立ち」のころに比べて、本サイトの舌鋒が鈍った、という読者の意見が寄せられた。前々日の「弱きを挫き強きを助く」に対するコメント。引用しよう。
 確かにこの件に関しては朝日の記事に矛盾があると感じますが、新聞社の全体的な方向性として「強きを助け弱気を挫く」という意味合いを体現しているのは朝日より、産経や読売のほうではないかと。
 今、政府及び与党が目指そうとしている消費税増税策は南堂様の提唱する経済政策とは真っ向対立するものであると考えます。政権与党に対する批判の矛先が、私のような素人から見てもあからさまに鈍ったのには、南堂様の身に、よからぬことでも起きたのではないか。等と勘ぐってしまう次第であります。
 あはは。一本取られました。
 ま、これは、わかっていてそうしているのですが、説明を加えます。

 簡単に言うと、(前にも述べたとおりで)、小泉首相に比べて、安倍首相は小物過ぎて、論じるに値しない。
 福田首相はどうかというと、安倍首相ほど「小物」ということはないが、私の目からすれば、やはり「論じるに値しない」という感じ。これはどういうことかと言うと、次のことによる。

 本サイトはそもそも、政権批判を目的とする政治論説サイトではない。「真実を知る」ということを目的とするサイトだ。
 その典型的な例が、ライブドア問題だ。ここでは、世間全体が、大きな妄想にとらわれていた。「ライブドアは巨額の金を盗んで、株主に巨額の損害をもたらした。数千億円も」というふうに。……だから、その妄想を打破しようとする。
 同様に、イラク人質問題でも、世間全体が、大きな妄想にとらわれていた。「人質三人は自己責任を果たさない無責任野郎だ。彼らのために莫大な国費を使うのは無駄だ。彼らは税金泥棒だ」というふうに。……だから、その妄想を打破しようとする。
 小泉首相の場合も同様だ。世間全体が、大きな妄想にとらわれていた。「構造改革をすれば、景気が回復する」というふうに。だから、その妄想を打破しようとする。
 ひるがえって、安倍首相や福田首相では、どうか? 世間はどんな大きな妄想にとらわれているか? いや、もともと、妄想をもっていない。なぜなら、もともと何の期待ももっていないから。
 ま、安倍首相については、「女性票の支持率が高い」ということはあったが、あれは顔にだまされただけであって、まともな男性は支持しなかった。本サイトはまともな男性読者が大半だから、安倍首相について期待する人もいなかったはずで、もともと論じるに値しなかった。無視。
 福田首相はどうか? あの顔じゃ、だましようがないですね。小泉や安倍ならばだませるが、福田首相ではだませない。……もう一つ言えば、福田首相は、自民党のボスクラスでは、唯一といってもいいくらいに、誠実である。ま、政治家に「誠実」という言葉を使うのは変だが、「不誠実」の度合いが低い。これは、派閥の領袖のなかではただ一人だ、と言ってもいいくらいだ。そもそも、福田首相は、もともと派閥の領袖ではない。(森派の平議員である。)また、出身経歴からして、サラリーマン経歴が長く、貧乏暮らしが身についており、生活感覚は、われわれサラリーマンと大差がない。小泉や安倍とはまったく異なる。
 で、「だから福田首相を支持するのか?」と聞かれれば、そうは言わない。ただし、「福田首相にだまされるな」と大声を上げることはない。別に、先方だって、だまそうとしていないんだし。世間だって、もともと期待もしていないんだし。本サイトの意図からすれば、福田首相は批判対象とならない。(下手に批判して、別の首相になったら、現状よりは悪化するはずだ。たとえばローゼン閣下というオタクが首相になったら……げっ。気持ち悪い。)

 そこで、「だったら自民党の政策を支持するのか?」と言われれば、そんなことはないのだが、面倒臭いから、いちいち批判しないだけだ。本サイトは民主党や共産党のサイトではない。政権批判が目的ではない。たとえ下らない政策が山のようにあっても、別に、それを扱うのは、本サイトの役割ではない。民主党や共産党や、あるいは朝日など、リベラルまたは左翼と同じことを言うのは、本サイトの意図ではない。
 本サイトの意図は、政権批判ではなく、「真実を探ること」のみである。政府が嘘をつけば、それを批判する。朝日が嘘をつけば(正義の味方のフリをすれば)、それを批判する。
 一方、政府が単に馬鹿なことをしているだけならば、「馬鹿だなあ」と人々は自分で納得するので、私が人々に交じって、「そうだ、そうだ、政府は馬鹿だ」と騒ぐことはない。私が言うまでもない。そんなのを読まされた読者だって、同じ意見を聞かされるだけ、時間の無駄だ。「なんだこいつ、誰もが知っている意見を言っているだけじゃないか」と思うだけだ。
 というわけで、政府が単に馬鹿をやっている限りは、私は批判しない。政府が(またはマスコミが)嘘をついた場合にのみ、私は批判する。嘘があれば、人々はだまされる。そこで私が「だまされるな」と批判する。そういう形で「真実を探る・訴える」ということをなす。

 経済政策は? 福田内閣は、特に嘘をつかない。「構造改革で景気はバラ色」というような嘘をつかない。もともと何の期待もいだかせていない。だから、私としても、批判のしようがない。「福田内閣は、嘘をつかずに、真実のみを語る」というわけではなく、「何も語らず無口」なのである。無口な田舎者をいちいち批判するほど、私は野暮じゃない。
 ま、経済政策では、政府も自民党も、無為無策である。しかしそれは、彼らのせいというよりは、日本全体のせいだ。自民党から民主党に変わったからといって、現状が変わるわけじゃない。下手をすると、悪化するかも。
 大事なのは、経済政策についても、「真実を知ること」である。そして、私は「真実を知らしめよう」とする。……ただし、それは、現状では、「政府を批判する」という形でなすのではなく、「経済理論を解説する」という形になる。そして、そのことは、もうすでに十分に説明し終えた。
 そこで、このあとは、落ち穂拾いふうにやっているだけだ。新たに書いて説明することはあまりないので、読者は既存の話でも読んでください。
 ま、現状では、主たる攻撃対象は、「日本人全体の妄想」である。「今のままなら何とかなるさ」と思っている人が多いので、これについてときどきボチボチと書いている。語るべきことはほぼ語り終えたので、ときどき散発的に書くくらい。

 ともあれ、「政権批判」という視点から見ると、「政府が嘘をつかなければ、こちらから『嘘つき!』と反撃することもない」というふうになります。相手が無口だと、こちらも無口。……なぜ? 時間の節約。

 なお、最後に一言。
 本サイトは、政治運動のサイトではない。つまり、「特定の主義主張を唱えて、それで世間を動かして、国家を特定方向に導こう」という政治運動のサイトではない。たかが世間の隅っこで、一つのサイトを運営しても、政治的効果はゼロに近い。
 では何か? 読者に対して、何らかの知見を与えることだ。つまり、普通の書籍と同様である。本を読めば、読者は何かを得る。読者は、本によって洗脳されて、何らかの政治運動をするために、本を読むのではない。行動をするためでなく、自らの心を豊かにするために、本を読む。
 本サイトの意図も、また同じ。読者に何らかの行動を促そうとはしない。ただ読者の心を豊かにする(あるいは妄想からほぐす)ことだけが目的だ。本サイトは、政党の広報紙ではなく、テレビのコマーシャルでもなく、新聞や雑誌の広告でもなく、普通の書籍のようなものだ。
 で、そのために、普通の本ならば読者は金を払うが、本サイトでは金を払わずに読める。そこだけが違う。


● ニュースと感想  (11月27日)

 鯨にはどのくらいの知性があるのか? 前々日分に続いて、もう少し厳密に調べてみる。
   → Open ブログ 「鯨に知性はあるか」


● ニュースと感想  (11月28日)

 「エコノミック・アニマルたる輸出企業」について。
 イタリアの電気製品の会社が、東京のビルでイタリア文化を紹介しているという。自社商品だけをPRするのではなく、食事などのイタリア文化全般を紹介しているという。(朝日・夕刊 2007-11-27 )
 これはつまり、「金儲けだけの商売人」でなく、「文化の大使」にもなる、ということだ。立派なことである。
 それで、日本の企業はどうか……と言えば、もちろんお寒い限りだ。ただ、そんなことは誰でも知っているし、いちいち私がここで大声を上げて批判するまでもない。トヨタや日産やホンダが金儲け至上主義の商人( or エコノミックアニマル)だということは、誰でも知っている。また、ソニーやキヤノンも、ちょっとはマシだとはいえ、同類である。コマーシャルがちょっと文化的だという点が違うぐらいで、しょせんは同類だ。ま、こういう猿みたいな連中を、いちいち批判するのは、言わずもがなみたいなことだ。

 で、何が言いたいか? 「金儲けにならないことについても立派なふるまいをせよ」ということか? いや、そうではない。次のことだ。
 「金儲けにばかり邁進していると、かえって金儲けができない」
 「金儲け以外の文化事業にも精を出すと、かえって金儲けができる」
 これは、嘘みたいだが、真実である。経済学的にわかりやすく言えば、次のようになる。
 「文化事業への効果は、短期的でなく長期的な効果がある。金を出してもすぐには影響しないが、長期的にはじわじわと影響を出す。逆に、このことをサボっていると、長期的に損をこうむる」
 
 このことがわかっていない経済人が多いようなので、次のことを指摘しておこう。
 「米国における日本人の評判は、どうか? 松坂や岡島や松井が活躍しているから、日本人の評判は高いと思ったら、大間違いだ。それらの情報は、日本人記者によるフィルターがかかっているので、情報が偏っている。」
 「では、正しくは? 米国における日本人の評判は、とても悪い。その理由は、いろいろとあるが、主として人種的な偏見である。日本人だけが悪いのではなく、日本人・韓国人・台湾人・中国人など、こぞって評判が悪い。黒人やヒスパニックよりも、もっと評判が悪い。はっきり言って、犬のように嫌われている。もちろん、偏見のない人もいるが、総体的には、偏見のある人がたくさんいる。」
 「結果的に、『日本人は大嫌いだから、日本製品も大嫌いだ』という人々が、たくさんいる。こういう人々は、日本製品がいくら優秀でも、嫌いであるから、購入しない。たとえば、『インフィニティやレクサスがいくら優秀でも、BMWの方がいい。死んでも日本車なんか買うものか』というふうに思う。こうして、日本の会社は利益を失う」

 似た話をしよう。
 日本では、中国や韓国の評判がとても悪い。だから、中国や韓国の商品はちっとも売れない。サムスンの液晶ディスプレーや液晶テレビやケータイは、世界市場では日本企業を圧倒的にしのぐのに、日本市場ではちっとも売れない。なぜなら、強い偏見があるからだ。中国の電器製品の会社も似たようなものである。……そして、こういうことが、米国市場におけるトヨタ・日産・キヤノンなどにも当てはまる。
 なるほど、「レクサスやソニーは優秀だ」というふうな評判はある。しかしそういう評判はあっても、「だけど日本は嫌いだから買うものか」と思う人がたくさんいるのだ。
 とにかく、日本製品の品質がいくら良くても、「日本は嫌いだ」という米国の消費者が多い。そして、その理由は、次のようなものだ。
 ま、ほとんどは文化的な誤解である。(たとえば前日の「捕鯨」の話。)
 そして、こういう文化的な誤解に対して、日本政府は「口を閉じる」という方針である。「米国様に口答えはできない」というふうに。かつまた、日本企業も、「口を閉じる」という方針である。……こうして、日本文化への誤解は放置される。
 一方、中国や韓国は、せっせと自国の宣伝をする。さらには、日本の悪口を言う。「日本人は悪党だ。あんな悪党の作った製品を買ってはいけません。それより、われわれの製品を買ってください」
 すると、良心的な米国人は、それに従う。
 「なるほど、悪の日本企業の製品を買うのは、私の良心が許さない。多少は粗悪品であろうと、我慢して、中国・韓国の製品を買おう。それが人間の良心というものだ」
 というふうに。……そして、そのことがわからないから、日本企業は商売において不利になるのだ。

 結論。
 商売ばかりに血道を上げて、文化のことをほったらかしている、がめつい非文化的な日本企業。彼らは、得をしようとして、かえって損をしている。目先の百円を重視するあまり、長期的に毎年十円ずつ損することを、理解できずにいる。かくて、愚かな日本企業は、どんどん損をする。
 一文惜しみの百失い。……こういう諺を知るぐらいの知恵があればいいのだが。猿知恵だから、無理でしょうかね。「品質、品質」と唱えるばかり。馬鹿のひとつ覚え。


● ニュースと感想  (11月29日)

 「原爆の写真」について。
 原爆の画像を紹介する。リンク集。
   → nando ブログ「原爆の写真」

 原爆の画像は、前にもざっと紹介したことがあるが、整理されていない形だった。
 いろいろと調べた結果、整理された形で、秀逸なものをまとめたものがあるとわかったので、新たに紹介する。


● ニュースと感想  (11月30日)

 プリンタのインクカートリッジのリサイクルをしよう、という意見についての反論。そんなことはしても無駄だ、資源節約にはならない、という話。
  → Open ブログ 「リサイクル馬鹿」

 どうせなら、もっとまともなインク節約方法がある、という紹介。ためになる話。
  → Open ブログ 「インクの節約法」


● ニュースと感想  (12月01日)

 「ミシュランの三つ星評価」について。
 ミシュランの料理ガイドが出版されて、マスコミは大騒ぎだ。天下太平ですね。
 ここで、利口ぶった知識人が「ミシュランなんて駄目だ」とこき下ろしている。いわく:
 「フランス野郎に日本料理が評価できるものか」
 「料理の鉄人の店が抜けていたりして、評価がおかしい」
 「都心部ばかりに店が偏っていて、台東区あたりの名店が欠落している」
 「あれがない、これがない、という欠落が目立つ」

 さんざんこき下ろしたあとで、こう結論する。
 「情報を集めて成熟するまで、まだまだ時間がかかるね」
 この結論だけは妥当だが、こき下ろしている点は、あまり頷けない。

 そもそも、ミシュランなんて、神様ではないし、ただの評価の一つにすぎない。で、それがかくももてはやされている理由は、他のガイドブックが全然駄目であるからだ。特に、高級料理店に対しては、自腹で金を払って調べに行くマスコミ人なんて、どこにもいない。なぜなら、取材費が出ないからだ。一食2万円弱〜8万円の料理なんて、日本のマスコミでは、取材費が出るはずがない。
 というわけで、ちゃんと取材するミシュランには、ちゃんと存在意義はあるのだ。もちろん、完璧ではないが、誰もやらないことをちゃんとやった、という意義はある。かわりになるものは、ほとんどないのだから。
( ※ ユーザーのクチコミをまとめた本はあるが、あれは、高級店を何店もはしごした人が統一的に書いたものではないから、評価がまったく安定しないで、信頼性がない。ほとんど参考にならない。)

 さて。肝心の話は、このあとだ。
 だいたい、ミシュランがどうであろうと、私の知ったこっちゃない。1食2万円もする店なんか、接待を受ける防衛省時間じゃあるまいし、私なんかが行くわけがないんだから、私の知ったこっちゃない。そんなことはどうでもいい。論じる必要性はまったくない。
 では、何を言いたいか? ミシュランに比較した上での、マスコミの料理記事だ。

 ミシュランについて「ああだこうだ」とマスコミが論じる前に、マスコミ自体の(自分自身の)料理記事を見てほしいものだ。見ればわかるが、あまりにもひどい。索漠としたありさまに、唖然とする。
 
 第一に、調査というものが欠落している。ミシュランならば、あちこち調査して、限られたものを精選して、掲載する。しかるにマスコミの記事は、行き当たりばったりで店に行き、とにかく「おいしい、おいしい」と書く。まずくたって、「まずい」とは書かない。なぜなら、「まずい」と書けば営業妨害になるからだ。かといって、何も書かなければ、取材費が無駄になる。というわけで、まずくても「おいしい」と書くしかないわけだ。ま、「おいしい」と褒めることはなくても、とにかく、紹介する。その理由は、取材費を無駄にしないため。(情けなくて涙が出る。ミシュランならばよだれが出るが。)

 第二に、記事が軽薄すぎる。内容空虚。たいていは、見映えとメニューを紹介するだけで、情報としては写真があるだけ。記事の文章そのものの情報量は、あまりにも少ない。で、何が欠けているかというと、材料や調理法がまったくわからないので、料理を再現することなどまったく不可能だ、ということだ。味さえもまったくわからない。「情報量のない記事」の見本である。で、読者としては、おおまかな情報を得て、その店に行くまでは、ほとんど何もわからないことになる。しかるに、数百万人もの読者のうち、実際にその店に行く人は、九牛の一毛にすぎない。……かくて、無駄。新聞の資源も無駄。
 では、どうすればいいか? 材料や調理法を書けばいい。ただし、そのためには、料理の知識が必要となる。「おいしい、おいしい、まいうー」と叫ぶだけのタレントみたいな記者は不要だ。料理人たる記者が、ちゃんと料理の解説をするべきだ。そしてまた、できることなら、そこから「家庭でその料理を真似して再現する方法」というのを掲載するべきだ。
 実を言うと、このレベルに達した記事は、一つだけある。読売新聞に連載されている料理記事だ。ありがたいことに、ネットでも見ることができる。
   → こぐれひでこの「おいしい画帳」
 これはまさしく理想的な料理記事である。大変、参考になる。「かくあるべし」という見本だ。
 ただし、これは、記者が書いた記事ではない。外部の料理好きの人が書いた記事だ。新聞社たるもの、こういう記事を掲載するべきだ。阿呆な記者が、会社の取材費を使って美食を食べて、下らない記事を書くのは、ただの浪費である。
 たいていのマスコミは、防衛省の事務次官と同じようなものである。他人を批判するより、自らの下らない無駄記事を、まともにするべきだ。あふれているゴミ記事をかくのは、やめてもらいたい。また、テレビにしても、「まいうー」なんて叫ぶだけのお馬鹿な美食番組を、やめてもらいたいですね。まだしも「郁恵のお料理」とかいう3分間クッキングみたいな番組の方が、よほどマシである。
( ※ テレビの美食番組は、よく考えれば、料理番組ではなくて、ただの馬鹿騒ぎのバラエティなのかもしれない。としたら、馬鹿に向かって「馬鹿」と叫ぶのも、大人げなかったかも。すみません。)

 [ 参考サイト ]
  → zakzak朝日報知産経日経(ザガットサーベイ)


● ニュースと感想  (12月01日b)

 「グルメ本の意義」について。
   ……  前項の続き。先に前項をお読み下さい。

 ミシュランの料理ガイドについて、私なりの個人的な感想を示しておこう。グルメ本一般の意義について語る。
 グルメ本の狂想曲にはうんざり……と書きそうに思えるが、別に、私はそれほどひねくれてはいない。たしかに、グルメ本(レストランガイド)には、意義がある。そのことを、初めに認めておこう。
 というのは、値段と味とは、比例しないからだ。有名どころでは、西洋料理の「レカン」とか、和食の「なだ万」とかがあるが、これらで大枚を払っても、そんなに大差があるとは思えなかった。ランチで 3000円ぐらいからグルメレストランになるが、そういうところと比べて、大差があるとは思えなかった。ま、おいしいことは、おいしいんですけどね。
 その一方で、特に名は上げないが、万札一枚で感動するほどおいしい和食店もある。あとで調べたら、たしかに「抜群においしい」と有名なところであった。私は名前は知らなかったが、通の間では有名らしい。
 というわけで、通の間で「おいしい」と知られる店は、たしかに、抜群であるらしい。そこに行けば、万札を払う価値がある。一方、ただの有名店では、万札を払っても、たいしたことはない。
 というわけで、情報の必要性がある。つまり、グルメ本(レストランガイド)には、意義がある。

 ただし、である。もうちょっと本質的に考えてみよう。
 いくら料理がおいしいからといって、それが人生の目的になってしまっては、情けない。料理の存在価値がないとはいわないが、それは、第一目的にはならない。せいぜい、「仕事で疲れたときの息抜き」である。
 第一目的として、人生の究極の目的があるはずだ。それをめざすのが、あるべき生き方だ。
 一方、第一目的を見失って、「おいしいものを食べるのが生きがい」なんていうのは、あまりにも情けない。それは、いわば、人生を終えた定年退職者の生き方だ。つまり、「人間の残りカス」の生き方だ。ま、生命が搾り取られたあとのカスみたいな老人なら、それも仕方ない。しかし、まだ若いうちに、そんな生き方をするのは、あまりにも情けない。
  ・ 子育てを終えて何もすることない有閑マダム
  ・ 防衛省で仕事をしないで接待ばかり受けている事務次官
  ・ 会社で経営をしないで美食だけを楽しむ経営者
  ・ 定年退職をして退職金を食いつぶすだけの老人
 こういう人こそ、「グルメ・レストランが第一目的となる」となる人々だ。……情けないですね。

 結論。
 さんざん仕事をした人なら、「戦士の休暇」としてに、グルメレストランに行くのもいい。それで癒されるなら、遠く旅行に行くより、マシかもしれない。たしかに、素晴らしい店には、素晴らしい味があり、素晴らしい感動をもたらされる。
 しかし、仕事もしないで、「徴兵忌避者の遊興」みたいになってしまっては、みじめすぎる。
 つまりは、グルメレストランというのは、「老人と敗残者のためにある店」なのである。「成功者のためにある店」ではない。なぜなら、真の成功者は、今まさに戦いのさなかにあるからだ。戦いのさなかにある人には、グルメ・レストランに行く暇などはないし、むしろ、「お断り」と言うだろう。
 私もそうだ。「グルメ・レストランに行きたい」なんて思うことはない。私は第一戦の戦士だからだ。ま、たまに行くなら別だが、だとしても、それは決して、第一目的にはならない。「どうでもいいこと」にすぎない。


● ニュースと感想  (12月02日)

 「トヨタのカイゼンの真相」について。
 トヨタ流経営の「カイゼン」(QC運動)は有名だが、その真相は?
 経済学者の話では、「生産性向上」という面ばかりが取り上げられる。だが、それは会社の都合だ。労働者にとっては、どうか? それはただの「無給労働」にすぎない。(サークル活動ふう。)つまり、いくら会社の仕事のために働いても、「それで生産活動をしているわけではないから」という理由で、給料が出ない。
 かといって、サボったりすれば、「会社の業務に熱心でない」という理由で、ボーナスなどが激減する。
 つまり、会社流の二枚舌。嘘八百。ゴマ化し。ペテン。……もっとはっきり言えば、「賃金不払い」という形の泥棒である。泥棒であるから、れっきとした犯罪だ。

 さて。これで奪われるのが、金だけならば、まだいい。実際には、「過労死」当形で、命を奪われることもある。
 その判決が出た。
 トヨタ自動車過労死訴訟判決、原告が勝訴 名古屋地裁
 トヨタ自動車の堤工場(愛知県豊田市)に勤めていた****さん(当時30)が02年に急死したのは過重な労働が原因で、労災を認めず、療養補償給付金、遺族補償年金などを不支給とした処分は違法だとして、妻の博子さん(37)=同県安城市=が、豊田労働基準監督署長を相手取り、処分取り消しを求めた訴訟の判決が30日、名古屋地裁であった。多見谷寿郎裁判長は、死亡は業務に起因すると認め、不支給処分を取り消した。
 博子さん側は、同社が業務と認めないEX会役員などの「インフォーマル活動」などを含めると、健一さんが倒れる直前1カ月の時間外労働は155時間25分にのぼったと主張。無駄を徹底的に省く「トヨタ生産方式」により、ストレスの強い過重な労働を強いられたと訴えた。
 一方、労基署長側は、倒れる直前1カ月の時間外労働を52時間50分とし「死亡は業務による心身の負荷が有力な原因とはいえない」としていた。
( → 朝日新聞1

 多見谷裁判長は、業務外とされる活動のうち、業務の改善策などを記入する「創意くふう提案」、職場改善の目標に取り組む「QC(クオリティーコントロール)サークル」、班長に当たるエキスパート(EX)でつくるEX会の役員としての社内活動などについて「事業活動に直接役立つ性質で、使用者の支配下における業務だ」と判示した。
( → 朝日新聞2
 記事では詳しく報道されていないが、2007-11-30 のNHKニュースでは詳しく報道していた。労働者は、自宅に仕事を持ち帰って、「提案書類」というものをたくさん作成していた。というのは、班長に昇格して、いろいろとカイゼンの業務をやっていたから。
 ただし、会社側の言い分は、「カイゼンなんて、ただのサークル活動だ。今までだって、びた一文、金を払っていない。そんなもの、仕事じゃないよ。業務外のことで芯だとしても、そんなのは会社の責任じゃない」
 
 会社が自分の経営を報告するときには、「当社はカイゼンという素晴らしい経営方法を取っています」と自慢する。「これによって日々に、たゆまぬ進歩をなしているのです。常に同じところに留まらず、たゆまぬ進歩があります。すばらしいでしょう」と自慢する。
 しかし、その素晴らしい進歩は、経営者がもたらしたものではない。労働者が新家をすり減らしてもたらしたものだ。つまり、労働者の労働がもたらしたものだ。しかるに、労働者の知的活動に対して、「当社は肉体路宇津だけに金を払うのであって、知的労働には金を払いません」と言い張る。……労働泥棒。

 トヨタが大儲けしているのは、技術が素晴らしいからではなくて、労働者に素晴らしい生産技術を開発させながら、その労働の対価としての給与を払っていないからだ。というか、給与を払わないことで、労働者を酷使しているからだ。
 簡単に言えば、あくまである。人の命を奪って、自分が儲ける。そして、「自分はものすごく儲けるから素晴らしい」と自慢する。
 
 で、そのあとは? 朝日新聞や読売新聞が称賛する。「トヨタは素晴らしい! カイゼンによって大儲けするのだから、トヨタは素晴らしい!」と。
 なぜか? 朝日新聞や読売新聞が愚かだからか? 違う。彼らが悪魔から金をもらっているからだ。「巨額の広告費」という形で。……防衛省の元・事務次官と同じ。賄賂を受け取っているから、相手に甘くなる。
 
 今回の過労死の報道では、NHKだけが信用できる。それ以外の民間マスコミはすべて、トヨタから袖の下をもらっているから、信用できない。彼らはみんな買収されているのだ。

 しばしば「NHKは国民から金を取るのはけしからん。民営化してしまえ」という意見が出る。そういう貧乏人くさい発想をしていると、真実というものから目をふさがれる。
 よく聞くが、「NHKなんか民営化してしまえ」という連中は、金の亡者だ。こういう連中は、防衛省の元・事務次官やその妻と同じで、あっさり買収されるだろう。「真実よりも金」という連中が、日本にはあまりにも多すぎる。
 防衛省の元・事務次官は、決して、ひどい悪人ではない。彼は、そこいらにいる大多数の国民と同じである。ただ、彼には、才能があったので、甘い誘惑がかかった。大多数の国民は、才能がないので、甘い誘惑がかからない。……そういう違いがあるだけだ。どっちにしたって、さもしい根性は同じである。
 そういう形で、防衛省の元・事務次官を見るべきなのだ。「あいつは悪党だ」などと思うとしたら、とんでもない勘違いだ。「あいつはおれと同じだな」と思うべきなのだ。

 これは皮肉か? とんでもない。ただの事実である。
 「トヨタはカイゼンをするから、素晴らしい。トヨタの真似をしよう」
 というエコノミストの声を聞くと、たいていの人は「なるほど」と頷く。「そうやって生産性を向上すればいいのだな」というふうに。
 そういう「生産性向上オタク」を批判するのは、日本広しといえども、本サイトぐらいであろう。本サイトの読者だけは、洗脳されにくいだろうが、現実には、日本中の大多数の国民は、洗脳されてしまっている。……悪魔の餌になるために。

 [ 付記 ]
 以上のことを書いた翌日、朝刊を読んでみたら、朝日なども本件をいくらか報道している。無視というわけでもない。批判の口調がないわけでもない。ここまではいい。
 ただし新聞は、裁判に乗じた形でトヨタを批判しているだけだし、トヨタというより日本中のQC運動をまとめて批判している。トヨタのご機嫌を損ねたくない、という感じ。
 裁判のことを話題にするのなら、トヨタのことだけを話題にすればいいのだが。(つまり、話題をトヨタから逸らすべきではない。)
 また、日本中のQC運動を大きく話題にしたいのであれば、常日頃から話題にしていればいいのだが。……なのに、裁判のときだけ話題にして、相手はトヨタ以外も含める、というのでは、おかしい。舌鋒が鈍っている。


● ニュースと感想  (12月02日b)

 デジタル時計に不思議なエラー表示が出て、あわてふためいてしまった。
 これはいったい、どういうことか? 
  → Open ブログ 「デジタル時計の怪」


● ニュースと感想  (12月03日)

 「気がつかない」ことは、罪なのだろうか? (うっかり者には、身にしみる話。)
  → Open ブログ 「気がつかない罪」


● ニュースと感想  (12月03日b)

 「林望のデタラメ」について。
 朝日新聞の署名コラムで、林望という署名で、メチャクチャな経済論説が書いてあるコラムがある。その趣旨は次の通り。(朝刊・国際面 2007-12-02 )
 「香港では、最底辺層の人々が、見るも無残なありさまになっている。主婦は野菜代を浮かすために、クズ野菜を拾いに出て、それで食事をする、というありさま。首相の訪問を受けた女子高生は、あまりにも貧乏で惨めな境遇に、泣きやまないというありさま。それというのも、最低賃金制度がないところで、大陸から中国の労働者が大量に流入してきたから、単純労働者の賃金が大幅に低下しているせい」(ここまではただの現状分析であり、正しい。)
 「このように経済の自由化ばかりを追究したあげく、格差の拡大をもたらした香港の現状。これは、明日の日本を映し出しているようなものだ」(ここは筆者の感想)
 何というひどい感想であろうか。これはただの「経済失政」にすぎない。企業の声に乗じて、「安い労働力を流入させれば、企業が儲かる」という声のもとで、移民を無制限に流入させるから、最底辺層の人々が一挙にしわ寄せを受けるわけだ。ただの失政にすぎない。
 つまりは、馬鹿が経済を破壊すれば国民はメチャクチャなひどい目に遭う、というだけのことだ。そして、その結論は、「経済自由化がいけない」ということではなくて、「移民流入なんかをやたらと認めるな」ということだ。当り前ですね。世界の数十億人もの貧乏移民をどんどん招いては、どんな一国だって破綻してしまう。比喩的に言えば、「日本にスーダン国民をどんどん招こう」とすれば、スーダン人が日本人のようになるのではなく、日本人がスーダン人のようになるだけだ。それだけのことである。馬鹿だけがこういうメチャクチャな政策を取る。

 こういう馬鹿げたことを主張するのは、ただの阿呆だけである。
 さて。このような馬鹿げたことを主張するのは、どこの誰だろうか? そう思って、署名を見たら、「林望」とあった。これは有名なエッセイストの林望氏のことであろうか?
 しかし、林望氏ならば、非常にすばらしい文体で名文を書くのに、このコラムは非常にまずい文体で悪文を書いている。とても同一人物だとは思えない。だとすれば、何らかの肩書きが記してあるべきなのだが、何の肩書きも記していない。「朝日新聞編集委員」という肩書きすらも書いていない。としたら、日本で「林望」で通る人物は、エッセイストの林望氏しかいない(ネットで検索してもわかる通り)のであるから、これはエッセイストの林望氏が書いたということになる。少なくとも署名を見る限り、そうとしか理解できない。

 可能性としては、次の二通りが考えられる。
  ・ まさしく林望氏が書いた。
  ・ 別人がメチャクチャを書いた上で、エッセイストの林望氏のフリをした。
 
 この二つのうちの、どちらかであろう。そして、朝日が後者のような犯罪をやらかすとは考えられない。これは論文の剽窃(ひょうせつ)と同様の悪質な犯罪である。そのような犯罪記事を堂々と掲載するほど、朝日は落ちぶれてはいないだろう。
 とすれば、いくら文章が林望氏らしくないとしても、次のように結論せざるを得ない。
 「エッセイストの林望氏は、とうとう発狂して、メチャクチャな文章を書くようになった」
 少なくとも朝日の記事を見る限り、そう受け取るしかない。

 なお、もし事実がそうでないとしたら、エッセイストの林望氏は朝日新聞から莫大な損害を受けたことになる。
 まさか、そんなひどいことは、朝日新聞はしませんよね? これは、比喩的に言えば、朝日新聞の記者が「渡辺恒夫」とか「福田康夫」とかいう署名で、コラムを書いて、日本の政治を論じて、他人のフリをするようなものだ。そこまでひどいことを、朝日がやるとは思えない。朝日に少なくとも常識というものがあるのだとしたら、エッセイストの林望氏が発狂したことになる。
 いずれにせよ、朝日新聞全体が発狂したか、エッセイストの林望氏が発狂したか、どちらかであろう。可能性としては、後者の可能性の方が、ずっと高い。一人だけが発狂することはあるが、全員が発狂することはほとんどないので。
( ※ とはいっても、ライブドア事件とか、イラク人質事件とか……全員が発狂することもあります。)

 [ 付記 ]
 現実的には「リン・ボウ」という香港人が無署名で書いた、ということも考えられる。(これが常識的?)
 だけど、仮にそうだとしたら、やはり、無署名記事を書いて読者をだました(エッセイストの林望のフリをした)ということになる。意図的であるか否かは問わないが。……なお、意図的であれば、悪質だが賢明。意図的でなければ、悪質でないが、新聞社として体をなしていない。新聞社としてのシステムが壊れているのだから、さっさと廃刊にするべし。
 比喩的に言えば、食肉などを偽装した悪質な食品会社と同類である。当然、営業禁止処分にするべし。

 [ 注記 ]
 本日別項は、「気がつかないことの罪」である。ここでは、気がつかないことが、免責される、という趣旨で論じている。
 しかし、それはあくまで、個人としての話だ。会社組織では、全然違う。「気がつかなかったのでごめんなさい」では済まない。気がつかないという構造的な欠陥がある場合には、謝って済む問題ではなく、営業停止が妥当である。
 ま、「間違いだから金を賠償せよ」ということにはならないだろうが、最低限、営業停止ぐらいはするべきだ。……朝青龍だってそうしたでしょう? 朝日だって、そのくらいのことはするべきだ。
 でもまあ、そこまでひどくはないですよね? 天下の朝日なんだから。……朝日が間違ったんじゃなくて、エッセイストの方が発狂したんですよね? そうなんでしょ、朝日さん? 

  【 追記 】
 以上は朝日の悪口。では、正解は? 後日談ふうに、正解(?)を示そう。
 検索して見つけてくれた読者がいたが、それによると、林望・朝日新聞香港支局長らしい。
  → 人民中国のサイト (ページ末尾)
 この人、朝日新聞の上では身分を隠すくせに、人民中国では堂々と正体をさらす。
 こんなことだと、2ちゃんねらーから「国賊だ」と言われるかもしれませんよ。……いえ、その人が、じゃなくて、朝日が。(もう そうなっている?)
 だいたい、名前からして、読み方を示していない。「リンボウ」なのか「はやしのぞむ」なのかも不明。
 ※ なお、上記のサイトは、 ****.cn  という形なので、中国のサイト。香港ではない。香港ならば、 ****.hk  という形。 


● ニュースと感想  (12月04日)

 「技能研修制度」について。
 前項では、移民流入について、「移民を無制限に流入させると国民生活が破壊される」と述べた。ただし、このことが、なかば骨抜きにされかかっている。それは「技能研修制度」という名前の制度で、これは移民流入の制限を形骸化している。最低賃金制度の枠外になっている。最近ではいくらか制限がかかって、是正されてきたが、まだまだ本質的にはこの問題は残る。
 「この制度がないと中小企業はやっていけなくなる」
 という声もあるが、このような発想は、経済学の基本原理に反している。最低賃金以下の賃金しか払えないような企業は、日本では存在意義がないのだ。だったら、そのような企業はつぶれるべきだし、そのような産業は国外に流出するべきなのだ。……これが経済学の常識。
 とすれば、「技能研修制度」という制度は、本質的におかしい。「研修だから最低賃金制度以下」というのは、あってはならない。これはただの「単純労働者の制限の形骸化」にすぎない。

 では、どうするべきか? 次のいずれかにするべきだ。
  ・ ちゃんとした給料を払う。(最低賃金制度のもとで)
  ・ 研修中は、給料をまったく払わず、逆に、研修生が金を払う。
   (金がなければ貸与してもいい。)
 要するに、企業が研修をするのではなく、学校が研修をする。職業訓練学校みたいなものです。で、その資金を、企業が貸し付けてもいいが、あくまで、金は外国人の側が払うべきだ。そうしてこそ、「いつでもやめられる」という自由が得られる。
 ま、現実には、懸念もある。「金を貸し付けて、身分を縛り付ける」というやつだ。昔、女郎部屋で、よくあったやつ。……しかし、今の時代にそんなことをやれば、たちまち糾弾される。たとえば、「日産自動車やトヨタ自動車が女郎部屋みたいに縛り付けた」なんて報道がなされたら、イメージがメチャクチャだ。だから、現実には、そういうことは起こりにくいだろう。中小企業だって、犯罪をすれば、似たようなものだし。
 
 というわけで、上記の二点のようにすることを、私は提案したい。


● ニュースと感想  (12月04日b)

 いじめ対策は、どうすればいいか? 
   → nando ブログ 「いじめ対策」


● ニュースと感想  (12月05日)

 オタクの大好きなポップアートの現代美術家である村上隆の作品を紹介する。
  → Open ブログ 「村上隆の作品」


● ニュースと感想  (12月06日)

  「オタクが女性と交際できないので困っている」
 という話はよく聞く。それに対して、私は前に、対策を示したことがあった。しかし、この方針は、問題があるようだ。
 実は、オタクというものは、そもそも結婚するべきではないようだ。オタクは、生涯、誰とも結婚できないでいるのが正しい。……それが新たな結論だ。
  → Open ブログ 「オタクと結婚」


● ニュースと感想  (12月07日)

 前項(オタクと結婚)のつづき。
 「女房の愚痴を聞くなんて、うんざりだ」
 と思う夫は多いが、そういう夫は人間失格である。では、どうするべきか? 
  → Open ブログ 「女房の愚痴を聞く」


● ニュースと感想  (12月08日)

  国政選挙に電子投票を導入する、という方針がほぼ決まった。近いうちに法制化されるそうだ。しかし、電子投票には、問題がある。
  → Open ブログ 「電子投票の問題」


● ニュースと感想  (12月09日)

 科学と教育に関する、二つの話題。
   → Open ブログ 「子供の科学力の低下」
   → Open ブログ 「教育用のパソコン」


● ニュースと感想  (12月11日)

 リサ・ランドールという女性物理学者の唱えた「5次元宇宙」という理論が話題を呼んでいる。素人はこういう話を聞いて、「面白い」「これが最新物理学だな」とと思うものらしい。では、これは正しい理論か? 
  → Open ブログ 「5次元宇宙(リサ・ランドール)」


● ニュースと感想  (12月12日)

 医師のなすべきことは何か? それを示すために、「ロボット三原則」になぞらえて、「医師三原則」というものを立ててみる。
 → Open ブログ 「医師三原則」


● ニュースと感想  (12月13日)

 「大阪府知事選の橋下候補」について。
 大阪府知事選に橋下弁護士が立候補するという。(各紙報道。)
 これを聞いたときの感想は、こうだ。
 「お笑いタレントがまた知事になるとは、大阪府民もなめられたものだ。何度失敗すれば懲りるのか」
 橋下弁護士のふるまいは結構よく見ているが、なかなか頭が切れるけれども政治家向きだとは思えない、と私は感じていた。
 しかし、今回の立候補の弁を聞くと、こうあった。
 「不妊治療への助成や産科・小児科医療、保育施設などに予算を集中させていく考えを示した。」
 ( → 朝日のサイト
 このうち「不妊治療」というのは、「あんたが子だくさんすぎるからだろう。自分が7人も産んだからだろう」というツッコミが入るはずだ。もしかして、ウケ狙いの、ただのボケかも。
 で、大事なのは、「産科・小児科医療、保育施設」だ。ここに着目する知事(候補)がようやく出たか、という感じだ。
 まったく、今までの知事と来たら、何もしないで、無為無策。そのせいで、日本の産科体制は最悪の状況だ。何度も述べてきたとおり。
 で、ここに着目するのは、まことに慧眼であり、立派である。というわけで、見かけに反して立派なので、私はこの候補を支持したい。
 ま、全面支持とは言わないが、とはいえ、他のボンクラ連中に比べればはるかにマシだ。特に、前原みたいに「安保」のことばかり唱えて、自分の国の崩壊状態を放置するような阿呆に比べれば、月とスッポンだ。
 橋下候補は、民主党よりも民主党的なので、民主党は対立候補を出さないのが賢明だ。むしろ相乗りした方がいい。(もしかしたらそのうち橋下候補は自民党から絶縁されるかもしれない。そのときに取り込んでしまえばいい。)

 ところが、である。民主党は、別の対立候補を出してしまった。調べたら、理系の技術に強い学者。記事では、次の通り。
 「実務能力が高く、関西の顔としてリーダーシップを発揮できる、としてリストアップしたという。
 熊谷氏は大阪府豊中市出身。1968年に東京大工学部を卒業し、75年に大阪大大学院基礎工学研究科の博士課程を修了。阪大助手、阪大助教授を経て、90年1月から阪大教授。現在は、計測の制御や生体工学に関する研究を行っている。兄は、元大阪大学長で兵庫県立大学長の信昭氏(78)。」
 ( → 読売のサイト
 何ですか、これは。ただの機械学者であって、政治のことについてはど素人である。それだったら、弁護士の方が、よほど行政に身近だし、半専門家とさえ言える。
 要するに、民主党がこの技術者を選んだのは、知事として最適であるからではなく、単に「教授」という肩書きだけで、「偉そうに見えるからいいだろう」と思ったわけだ。民衆を愚弄するにも程がある、といいたいね。
 それとも、何ですか? 民衆を機械工学で制御したい、とでも思っているんですか? そういうつもり? それなら意味はわかるが、あまりにも愚劣である。
 最悪。これこそ本当のお笑いタレント。民主党は、もうちょっとまともな政党かと思っていたが、ここまで馬鹿だとは思わなかった。呆れはてたね。
 ま、できれば、橋下弁護士が成功して、民主党に入って、民主党の党首になれば、今よりずっとよくなりそうだが…… (と書くと、本項も お笑いになりそうか? いやいや、現実そのものがお笑いだ。)

 [ 付記 ]
 そのまんま東にせよ、橋下弁護士にせよ、お笑いタレントの方が、政治家よりもよほどまともな知事になれるようだ。
 政治家というのはよほどの馬鹿ばかりが集まっているのかもしれない。なかば世襲制になっているせいで。……日本って、民主主義じゃなかったんですね。ロシアを笑えないな。

  【 追記 】
 Wikipedia の「橋下徹」を見ると、この人の政治姿勢は右とも左とも言えないようだ。比較的、私に似ている。……それで私が賛同したのかもね。
 うーむ。そういわれてみると、私とこの人、けっこう雰囲気が似ているかもね。  (^^); 
 いえ、私はあんなにボケをやりませんけどね。政治家なんか、頼まれたってやる気はないが。(というより、やりたくない。死んでもやりたくない。理由は? 浮気ができなくなるから。)


● ニュースと感想  (12月15日)

 NHKで、次の放送があるという。(読者からのご指摘。)
 NHKスペシャル「ワーキングプア3」
 12/16 (日) 21:15から放送。
 (ちょうど「行列のできる法律相談所」の時間ですね。橋下候補は、この番組では顔が墨塗りにされているだろう。)


● ニュースと感想  (12月15日b)

 オタクとは何か? オタクの定義と本質を探る。
 ( ※ 普通の人にとっても興味深い文化論。重要。必読。
  → Open ブログ 「オタクの定義と本質」


● ニュースと感想  (12月16日)

 「銃乱射事件への対策1」について。
 銃乱射事件が起こった。では、どうするべきか? 
 「困ったときは南堂に聞け」
 と思って、本サイトを見る人が多いだろう。そこで、ご要望に応えて、名案を示す。

 まず、よくある疑問は、こうだ。
 「銃が悪いのか? 銃を撃つ人が悪いのか?」
 銃が悪いのであれば、銃を一切禁止すればいい。しかし、それは現実には、ちょっと無理だ。(改革が急激すぎて、実現が困難。)
 では、銃をもつ人を教育すればいいのか? それで済むと思うのは、おめでたすぎる。そんな理想論では現実は片付かない。

 正しい認識は、こうだ。
 「銃が悪いのでもなく、銃をもつ人が悪いのでもなく、あっさりと銃を許可する制度が悪い」
 今回の犯人だって、銃を許可されなければ、銃乱射なんかできなかったのだ。刃物で殺すことはできるかもしれないが、二人を一挙に刃物で殺すことはできない。相手は逃げるから、ケガを負わせることは可能だが、殺すことはできない。
 ついでだが、刃物で人を殺すのは、容易ではない。腹を大きく裂いて出血多量で死なせるか、心臓を突くかだが、どちらも容易ではない。心臓を突くというのは、実は、けっこう難しいのである。(どうして難しいかは、教えない。殺人の方法をここに書くわけには行かない。知っているけど、書きません。)
 
 話が逸れた。問題は、「あっさりと銃を許可する制度が悪い」ということだ。だから、制度を改革すればいい。では、どういうふうに? それが眼目だ。
 そこで、あるべき制度を示す。

 (1) 許可金
 第一に、銃免許に対しては、許可金(免許料)を課する。しかも、それを工学にする。具体的には、こうだ。
  ・ 初回の登録料  20万円(初回のみ)
  ・ 毎年の免許料  20万円(初回にもかかる。)
 つまり、初年度は 40万円で、以後は毎年 20万円ただし、更新は2年ごととして、更新のたびに二年分をまとめて払う。初回には、二年分の免許料 40万円と登録料 20万円、合計 60万円かかる。その後、二年ごとに、毎年 40万円を払う。
 これだけの金を払える人は、少ない。それゆえ、銃をもつ人は、大幅に減る。
 これだと「金持ちしか銃をもたせないのか」という批判も来そうだが、自動車に比べればずっと安いのだから、文句を言わせない。自動車は必需品だが、銃は必需品ではない。液晶テレビだって 20万円ぐらいするのだから、このくらいでいちいち文句を言わないでほしい。
 殺人の道具を扱うからには。
 (なお、金額は、銃の1台ごとに課金する。銃が2台なら、毎年の免許料は2倍になる。)

 (2) チェック制度
 上記の金を払わせることの目的は、「人数を減らす」ことだけではない。チェックのメリットがある。
 これだけの金を払わせたあとで、各人の名簿を「課税証明書」の所得と比較する。すると、次のことがわかる。
 「所得が多くて銃をもっているか、所得が少ないのに銃をもっているか」
 前者ならば、金持ちの道楽、と見なせる。後者ならば、非常に危険である。所得が少ないのに、やたらと銃の道楽をするような人物は、危険人物である可能性が高い。それゆえ、念入りにチェックするべきだ。
 たとえば、近所の評判などを、念入りに聞く。

 (3) 補償制度
 チェックしたあと、そのチェックが尻抜けになっていては、何にもならない。(前にもそういう例があった、と報道されている。危険人物だと県警が調査報告したのに、どういうわけか銃保持の許可を出してしまった。)
 そこで、補償制度を導入する。「いったん許可したあとで、その人が銃乱射のような事件を起こしたら、被害者に見舞金を出す」と。たとえば、死亡で 5000万円。(これは、犯人側からの補償とは別個に払う見舞金。)
 では、その目的は? 被害者への救済もさることながら、「許可した側にペナルティを課す」ということだ。つまり、今回のような事件が起これば、銃器保有を許可した側(つまり県)に、ペナルティ( 5000万円)がかかる。……こうなると、許可するケントしては、損をしたくないから、むやみやたらと銃器保有を許可しないようになる。
 では、県の側は、ペナルティを恐れて、一切、許可しなくなるか? いや、そうすると、今度は免許料の収入がなくなる。それでは収入不足だ。だから、一切許可しなくなるということはない。

 まとめ
 以上の三つの要点は、こうだ。
 「経済原理を用いて、銃器保有の問題を最適化する」

 実は、これは、最適配分の問題である。
  ・ 銃をもってはならない人には、銃を配分しない。
  ・ 銃をもってもいい人には、銃を配分する。
 こういうふうに、最適配分したい。そして、そのためには、経済原理を用いるのがベストなのだ。お金の配分制度をうまく決めることで、自動的に配分が最適化される。……こういうところにこそ、経済学的な手法を使えばいいわけだ。
 これが「知恵」というものです。


● ニュースと感想  (12月17日)

 「銃乱射事件への対策2」について。
 銃乱射事件の背景について、読売新聞の特集でいろいろと説明されている。免許の取得も更新も容易であり、銃器の保有を禁止するすべがほとんどないようだ。(読売・朝刊・特集 2007-12-16 )
 実際、ネットで「射撃場」という言葉で検索するとわかるが、日本では(ピストルのような短銃はともかく、猟銃のような)長銃の保有はほぼ自由化されている。誰でも保有することができる。
 引用しよう。
 銃砲所持は、さだめられてた手続きを踏めば殆どの方が所持ができます。
 ……
 担当官から最初に「なぜ銃砲を所持したいのか?」と尋ねられるかと思います。その際にははっきり「クレー射撃がしたいのです。」と伝えて下さい。
 ( → 射撃場の案内
 つまり、たとえ殺人目的で長銃を保有しようとしても、「クレー射撃がしたいのです」と答えれば、あっさりと、殺人目的で長銃を保有することができる。(そのことを、上記の射撃場の案内は示唆している。)
 
 もちろん、これは、とんでもないことだ。「銃器保有の禁止」という原理を捨ててしまうのならともかく、「銃器保有の禁止」という原理を保ちながら、それを形骸化させるようでは、無意味だ。ほとんど「頭隠して尻隠さず」である。(だから尻を撃たれてしまう。……それが今回の事件だ。)
 要するに、「登録制にすれば、銃器保有を制限できる」というような形式論では済まないわけだ。

 では、どうすればいいか? 「銃器保有を完全に禁止する」というのは、過激すぎて、実現性が少ない。かといって、放置するのも駄目だ。
 そこで、提案しよう。こうだ。(前日分とは別の提案。)

 銃器免許を2種類に分ける。
  (1) [一般免許] 銃器を自宅で保管できる。(現状と同じ)
  (2) [制限免許] 銃器を自宅で保管できない。射撃場または猟場で保管し、そこでのみの利用可。ふだんは鍵をかけて、使えなくする。年間利用日数にも制限を付ける。

 現状では (1) だけがあるが、新たに (2) を追加する。
 「誰でも簡単に免許取得ができる」のは、(2) に限定する。現在の免許保有者は、自動的に、(2) に移行する。(次の免許更新までの間は移行期間。)
 一方、(1) のような免許は、新たに厳しい制度を立てて、そこでは、かなり限定的に免許を与える。「誰でも免許をもらえる」というようなことはない。前日のように免許料を高くして、かなり高いハードルを与える。銃器の保有は制限されるが、日本は原則として銃器保有が禁止されているのだから、当然のことだ。
 「それじゃ銃器を使う自由がなくなる」
 と文句を言う銃マニアもいるだろうが、別に、銃の使用が制限されるわけではない。単に射撃場などに、場所が制限されるだけだ。
 なお、文句を言う連中は、「何としても自宅で銃器をいじりたい」というわけだから、マニアチックな銃器マニアか、殺人の意思のある異常者であるか、どちらかだろう。念入りに調査して、免許の可否を決めるといい。

 [ 付記 ]
 この場合、銃器オタクばかりが、優先的に免許をもらえるようなものだ。こういうオタクだと、かえって得なのかも。「(銃器)オタクは人を殺さない」というのは、かなり当てはまる。
 一般に、(広義の)オタクというものは、他人を殺さない。自分を破壊するだけだ。その意味で、哀れむべき存在であり、救済するべき存在ではあるが、非難されるべき存在ではあるまい。ヤク中のようなものだ。ひたすら自己を破壊する。 ( 銃器オタクは、他人を銃弾で殺すかわりに、自分を陶酔感で破壊する。)
 オタクに憐れみを! 


● ニュースと感想  (12月17日b)

 「銃乱射事件とマスコミ」について。
 銃乱射事件に対して、マスコミはどう応じたか?
 読売は、比較的しっかりしている。特集で、問題を多面的に扱っている。特に大切なのは、この問題を制度の問題としてとらえていることだ。
 一方、朝日はどうか? ろくに記事もないが、社説ではこう論じている。
銃乱射事件―なぜ凶器を持たせたのか
 なんともむごたらしい理不尽な事件としかいいようがない。心の底から憤りを覚える。
   ……
 それにしても、疑問に思うのは、こんな危険な男がなぜ散弾銃を堂々と持っていたのか、ということだ。
 市民が銃を持てるのは狩猟や射撃競技などに限られる。
   ……
 男は銃を持って自宅の周りを歩き回るようなことをしていた。
 こうした不審な情報が寄せられた場合、許可の更新を見合わせたり、銃を取り上げたりすべきではなかったか。
 ここでは、「制度の問題としてとらえる」という発想がない。かわりに、何があるか? 
 「心の底から憤りを覚える。」
 「それにしても、疑問に思うのは、……なぜ……」
 これではただの文学的な感想にすぎない。

 はっきり言おう。朝日の態度は、ただの文学趣味である。単に「憤り」を感じたり、なぜかな、と「疑問」を感じたりするだけだ。そこには、感情だけがあり、知的な分析がない。正確に言えば、問題を社会的にとらえるという発想がまったく欠落している。どこまでも文学青年の感想文にすぎない。
 こんな感想文は、個人的な感想として、個人のブログにでも掲載するべきことだ。公の場である社説において論じるようなことではない。……ま、これは、一種のオタク趣味である。(文学オタク。) げっ。気持ち悪い。うらなりびょうたん。

 朝日はそろそろ、いやらしい文学趣味を捨てるべきだ。かわりに、問題を社会的にとらえるべきだ。
 そして、社会的にとらえれば、次のようにわかるはずだ。
 社説では、「なぜ散弾銃を堂々と持っていたのか」と書く。そして、その前提として、「市民が銃を持てるのは狩猟や射撃競技などに限られる」と書く。
 ここには、とんでもない誤認がある。正しくは、こうだ。
 「狩猟や射撃競技などを名目とすれば、市民は銃を持つのは、ほぼ自由である。それを制限する制度などはない。原則として許可される。あなたも私も、ちょっとした手続きを取るだけで、いくらでも自由に銃をもち、そこいらの街中でぶっ放すことができる。」
 もちろん、銃をぶっ放せば有罪になる。だが、ぶっ放すこと自体は、誰にも止められない。つまり、止める制度が欠落しているのだ。
 だから、「市民が銃を持てるのは……などに限られる」という表現はまったくの事実誤認である。たとえ殺人が目的であろうと、自殺が目的であろうと、いくらでも自由に銃を持てるのだ。「狩猟や射撃競技が目的です」という嘘の名分を述べさえすれば。……ここでは、大事なのは、「嘘をつく能力」だけだ。それも、特に難しい能力ではない。単に、「狩猟や射撃競技が目的です」という嘘をつくだけでいい。馬鹿でも言える簡単な嘘。

 ここには、社会制度の欠陥がある。そういう欠陥を指摘するのが、マスコミのなすべきことだ。憤りと疑問を感じるだけなら、ブログにでも感想を書きなさい。それはマスコミの仕事ではない。

( ※ 本項は、前項とペアになっている。社会制度の問題点の指摘と、その是正策は、前項[12月17日]で述べている。)


● ニュースと感想  (12月18日)

 「銃乱射事件とオタク」について。
 佐世保市で銃乱射事件を起こした犯人がいるが、この人はオタクではなかろうか? ── こんなことを書くと、オタクから総スカンを食いそうだが、ま、私の個人的な与太だと思って、いい加減に読み流してください。(ただのおしゃべりみたいなつもりで。決して論説ではありません。)

 私の感想の(あやふやな)根拠は、次の通り。
 (1) 横恋慕して、断られたせいで、暴走したらしい。
   → zakzak
 (2) 迷彩服を着て、華々しく散ろうとしたらしい。(朝日・朝刊)
 (3) 人付き合いが苦手だったらしい。

 「現実との接触ができないで、夢想世界に生きる」
 という性格が浮かび上がる。これはまさしくオタクの特徴だ。たぶん、ふだんゲーム漬けだったのだろう。……私の推定です。
(ただの推定であり、断定ではないので、念のため。当たっているかどうかは、今後の調査しだい。たぶん自宅から、ゲームがいっぱい出てくると思うが。)

 なお、zakzak によると、「オレはオンナに興味ない」と言っていたということだから、これもまたオタクに合致する。現実の女に興味がないとしたら、オタクかホモか、どちらかです。

 オタクというのは、妻を自殺させるだけじゃなくて、恋する相手をも殺すのだろう。……いや、すべてのオタクがオタクがそうだ、というわけじゃないんですけどね。でもまあ、この犯人も、オタクにならなければ、こんな事件は起こさなかっただろうに。生まれた時代が悪かったですね。

 [ 付記 ]
 「それはオタクへの偏見だ!」
 という声も来そうだ。ま、偏見かどうかは、あとで事実を見ればわかる。警察が自宅を捜索して、萌え系ソフトが出るかでないか……私は出ると思いますけどね。
 とはいえ、本項は、あくまでヤマカンの範囲です。論理的な主張とは違うので、あまり本気で論じたりしないでください。
 当たるも八卦、当たらぬも八卦。当たらなかったら、お代を返上します。ただし、お代はもともと無料です。  (^^);


● ニュースと感想  (12月18日b)

 自衛官がイージス艦の重要な機密情報を流出させた、という問題が起こった。
 これは「情報漏洩」の問題である。では、どう対処するべきか? 
  → Open ブログ 「情報漏洩への対策」


● ニュースと感想  (12月19日)

 「ミサイル防衛網の実験」について。
 ミサイル防衛網の実験がなされた。防衛省はこれを「成功」と称している。
海自イージス艦、初の弾道ミサイル迎撃に成功…ハワイ沖
 海上自衛隊のイージス艦「こんごう」は17日正午過ぎ(日本時間18日早朝)、米ハワイ沖の太平洋上で、初の弾道ミサイル迎撃実射訓練を行った。
 こんごうから発射された迎撃ミサイル「SM3」は、目標となる模擬弾道ミサイルを大気圏外で直撃、破壊することに成功した。
 現地時間17日午後0時5分、カウアイ島の米海軍太平洋ミサイル射場から、1発の模擬弾道ミサイルが発射された。同島北部海域で待機していた「こんごう」は、発射と同時に、模擬弾の探知、追尾を開始。発射から約4分後、迎撃ミサイル「SM3」(ブロック1A型)を発射し、その約3分後、高度100キロ以上の宇宙空間で模疑弾の弾頭に命中、破壊した。
 実験の成功によって、イージス艦による迎撃の信頼性の高さが証明された。
 今回、実射訓練が成功したことで、日本は、ノドンやテポドン1などわが国を標的とする北朝鮮の弾道ミサイルの脅威に対抗し得る手段を手に入れたことになる。 ( → 読売のサイト
 記事ではさんざん、「成功」と持ち上げている。では、本当に「成功」か? いや、とんだ茶番だ。はっきり言って、これは「大本営発表」である。こんな嘘を真実であるかのごとく報道する新聞の気が知れない。

 今回の実験の意味は、何か? こうだ。
 「きわめて限定された条件(現実にはとうていありえない条件)のもとで、一発だけのミサイルを撃墜することができた」
 
 ここでは、あえて「撃墜可能」となる条件を特別に設定して、その条件のもとで、撃墜可能になっただけだ。
 比喩的に言うと、試験の出来が悪い生徒に対して、あらかじめ「ここが出ますよ」と山をかけるように教えておいて、そのあとで、生徒が勉強をしているのを確認してから、その生徒にできるような、特別な試験を用意するようなものだ。
 つまり、あえて「合格」が出るような、特別な試験を設定したわけだ。そんな試験にパスしても、「実力がある」ことをまったく意味しない。

 今回の実験では、次のような特別な条件が設定された。  これらの条件が一つでもはずれれば、ミサイルの実験は失敗した可能性が高い。
 たとえば、次の条件だ。
 こういうふうに設定したら、どうか? たぶん、大半について撃墜不可能だろう。
 ただし、そういうことが判明したら、格好がつかない。そこで、「出来の悪い生徒でもうまくパスする」というような、特別な試験を設定して、「試験にパスしました」と宣伝しているわけだ。
 とんだ茶番。こういうものを国民に告げる新聞というのは、御用新聞以外の何物でもない。政府は実は、税金の無駄遣いをするだけなんだが。

 [ 付記 ]
 参考サイト。
  → http://www.abysshr.com/mdklg016.html


● ニュースと感想  (12月19日b)

  エチゼンクラゲが漁業にひどい被害をもたらしている。これについて対策が考えられているが、どれも効果的でない。そこで私が画期的なアイデアを示す。
 → Open ブログ 「エチゼンクラゲ対策」


● ニュースと感想  (12月20日)

  近年ではウナギが減少している、ということがしばしば報道されている。  これに対して、「生態を明らかにして、ウナギの養殖に結びつけよう」という立場がある。しかし、そういう短絡的な「金儲け」よりも、もっと根源を見るべきだろう。
 → Open ブログ 「ウナギの減少と環境汚染」


● ニュースと感想  (12月20日b)

 「医療崩壊への対策」について。
 医療崩壊について、読売の社説が論じている。( 2007-12-19 )
医療関連予算 機械的削減の限界が露呈した  医師や看護師の不足が深刻化し、「医療崩壊」という声すらある。
 こうした現状を考えれば診療報酬の一定の引き上げもやむを得まい。
 来年度予算案の閣僚折衝で、診療報酬のうち、治療の技術料などに充てる「本体」部分については、0・38% 引き上げることが決まった。
 社会保障費は、高齢化によって年に約8000億円ずつ自然に増える。この伸びを毎年2200億円ずつ圧縮する、というのが、政府の方針になっている。
 厚生労働省は、診療報酬の「薬価」部分を1・2%引き下げたほか、安価な後発薬の使用促進などで計約1500億円を抑制することにした。
 新たな歳出抑制策はその場しのぎのものしか浮かばず、前年までに決定していた医療費抑制策は先送りする。これはもはや、機械的削減路線の限界がはっきりした、ということではないのか。
 無論、社会保障費が野放図に膨張せぬよう、厳しく監視しなければならない。だが、超高齢社会に必要な予算はきちんと確保すべきである。  それには消費税率の引き上げが避けられないことは明白だ。
( → 読売の社説
 問題の認識自体は、間違っていない。「医療崩壊」という問題を認識している。しかし、その方策として、「消費税の引き上げ」というのは、いかにも能がない。だいたい、消費税の引き上げをするとして、それで済むのか? そんなことをどんどんやっていけば、消費税は 20%どころか 100%ぐらいになりかねない。何しろ、日本は少子・高齢化社会だからだ。労働者が生産する金額よりも、高齢者が福祉に要する費用の方が多い、というふうになりかねない。
 「金が足りなければ増税で」
 という安易な財政主義では、破綻は目に見えている。
( ※ 社説の最後には、こうある。「その議論を先送りしたままでは、社会保障の予算編成は毎年、迷走することになろう。」……馬鹿げている。日本の将来がどうなるかというより、予算編成という財政ばかりを重視している。国家のために帳簿を道具として見るべきなのに、帳簿をきれいにするために国家を破壊しようとする。目的と手段が逆になっている。本末転倒とは、このことだ。)

 もっと現実を見るがいい。現実には、次のような問題がある。
粒子線治療施設…100億円級新設ラッシュ、必要?
 がん治療に特殊な放射線を用いる「粒子線治療」施設の新設計画や構想が、全国15か所以上で相次いでいる。粒子線は放射線をがんに集中させ、高い治療効果を期待できるが、建設費が巨額で治療費も高いことから、「投資に需要が見合うのか。患者の奪い合いが起きないか」と乱立を懸念する声もある。
 がん患者は高齢化とともに増え、年に50万人以上が発症しているとみられる。体を切らない放射線治療が脚光を集めており、中でも粒子線は早期肺がんや前立腺がんに有効で、骨肉腫や悪性黒色腫など従来の方法では治療が難しいがんにも効果があるとされる。
 粒子線治療施設は現在、放射線医学総合研究所(千葉県)、兵庫県立粒子線医療センターなど6か所ある。  既存6施設以外に、群馬大と福島県の民間病院が既に着工、福井県と、鹿児島県内の民間医療機関が装置の発注を始めた。そのほか、建設や誘致の計画や構想が十数か所にある。
 体力的に手術が難しい高齢の患者らが増え、高い効果をアピールできる粒子線治療に、医療機関や自治体、金融機関の関心が集まっていることが、計画ラッシュの背景とみられる。
 だが、大がかりな装置が必要なだけに建設費は高額で、群馬大が建設中の重粒子線治療施設は約125億円、福井県が発注した陽子線施設は約80億円という。
 だが、数億円の設備投資で済む通常の放射線治療装置でも、肺がんや前立腺がんなどでは高い効果が出ている。粒子線施設は、海外では米独など5か国に計7か所あるだけで、日本は突出して多い。
( → 読売のサイト
 要するに、メチャクチャに金のかかる施設がどんどん建設されている。とすれば、いくら財政負担をしても、払う金がどんどんあるので、財政負担は増える。いわば、底抜けだ。バケツにどんどん水を注ぐが、バケツの底が抜けているから、いくら水を注いでも、バケツには水が溜まらない。
 つまり、「際限なしの医療支出」という馬鹿げたことをやっている限り、どんなに消費税を上げても、まったく無駄なのだ。

 ここで、「医療崩壊」という本題に戻る。すると、現状は、次のようになる。
 まったく、何をやっているんだか。どたばたコントみたいですね。愚の骨頂としか言いようがない。
 では、どうすればいいか? もちろん、現状とは逆のことをやればよい。次のように。  特に、後者が重要だ。これは、次のことを意味する。
 「科学が進歩すると、医療も高度化する。そのせいで、莫大にコストのかかる医療手段も登場する。しかし、そんな高度医療をむやみやたらとやれば、医療財政は破綻するし、国家も破綻する。ゆえに、高度医療については、コストの点から制限を設けるべきだ」

 なぜかというと、現状では、次の発想があるからだ。
 「命を救うためには、金を惜しむべきではない。人命は金よりも貴重だ。ゆえに、どんなに金がかかっても、人命を救うための医療をなすべきだ」
 なるほど、昔ならば、そういうことも可能だった。なぜなら、やたらと金のかかる医療なんかは、なかったからだ。せいぜい薬代と手術代ぐらいである。しかるに今は、製薬会社が特殊な高額な薬を開発したり、機械会社が特殊な機械を開発したりするので、一人あたりの医療費が数億円にもなったりする。このままだと、一人あたりの治療費が兆円単位になるかもしれない。たった一人の命を救うために、日本中の健康な人々の所得をすべて差し出す、というふうな。(コントみたいですね。)
 
 しかし、現実的に考える限り、「無制限の高額医療」というのは、「金持ちの贅沢」みたいなものであるから、もはや許されない。そんな夢みたいなことを望めば、国家全体が破綻する。
 従って、「治療にはコストからの制約を設ける」ということが不可避になる。当然、高額医療についても、当てはまる。たとえば、次のように。
 「粒子線施設をつくるのは勝手だが、それに対する健保の適用は認めない。あくまで自由診療として、患者の個人負担でやってもらう。健保からは高額医療は認めない。」

 ただし、このようなことを一律に適用すると、文句がいっぱい出てくるだろう。そこで、現実的な策として、次のことを提案したい。(結論)
 「患者に対する高額医療は、患者の余命にふさわしい金額に限定する。若い人の透析については、コストがかかるが、余命が長いので、かなり高額まで認める。一方、高齢者の粒子線医療については、余命が短いので、あまり高額な医療は認めない」
 たとえば、若い人には、年間 2000万円(一回限りなら 4000万円)までの高額医療を認める。一方、余命が 5〜10年ぐらいの高齢者には、年間 200万円(一回限りなら 400万円)までの高額医療しか認めない。
 特に、粒子線医療なんて、延命効果が5年ぐらいだ、というふうになりそうだ。(このあたりはあやふやだが。)そんなものに莫大な金をかける必要はあるまい。
 
 ただし、上記の方針には、「いやだ。どうしても高度医療を受けたい」という人も出てくるだろう。そう思う人は、自分で勝手に任意保険に加入すればいい。で、その人は、所得の5割ぐらいを差し出すような生活を続けて、そのあと、万一のときには高度医療を受ける、というふうにする。それがよければ、勝手にそうすればいい。「医療フェチ」ですね。「医療オタク」みたいなもの。
 一方、読売のように、「消費税を引き上げる」という方針を取れば、国民全員がそういう馬鹿げた「医療フェチ」みたいな生活を強いられる。愚の骨頂。

 [ 付記 ]
 もしかしたら読売は、「馬鹿」ではなくて、「医療フェチ」なのだろうか? ……としたら、読売などの新聞社のトップも、一種のオタク精神に汚染されているのかもしれない。
(ひょっとしたら彼らのパソコンには、萌え女医さんのソフトがあるのかも。それで、萌え女医さんの診察を受けたくて、あんな社説を書いたのかもね。)


● ニュースと感想  (12月21日)

 「環境保護を」「省エネを」という運動がなされつつある。しかし、そのせいでかえって「環境破壊」「エネルギー浪費」という行動を招いてしまうことがある。
  → Open ブログ 「省エネ馬鹿」


● ニュースと感想  (12月22日)

 「銃器保有と死刑廃止」について。
 先に「銃器保有を制限せよ」という趣旨の話をした。ただし、本項では、あえて暴論を書く。「銃器保有を制限するな」と。つまり、「人殺しの自由を認めよ」と。
 もちろん、これは暴論であるが、まともな正義ヅラをした見解よりは、はるかに真実を突く見解となる。以下では、「ここでは何が主張されているか」という観点で読むよりは、「ここでは何が問題視されているか」という観点で読んでほしい。私としては、何らかの見解を押しつけたいわけではなく、何らかの問題点を指摘したいだけだ。つまり、読者の頭で考えてもらいたいだけだ。(政治的な主張ではない。)

 まず、先に、銃乱射による殺人事件が起こった。ここから「銃器保有を制限せよ」という主張があちこちで現れた。(私の見解もそうだ。)

 一方で、「死刑を廃止せよ」という見解が、あちこちで出ている。
国連総会は18日、欧州連合(EU)を中心とする87か国が共同提案した死刑執行の一時停止(モラトリアム)を求める決議案を、賛成104、反対54、棄権29で史上初めて採択した。
( → 読売のニュース
( → 朝日のサイト1朝日のサイト2朝日のサイト3
 他にも、欧州などでは、死刑廃止が制度化されている。こういうふうに、あれやこれやと、死刑廃止の論調が強い。

 では、死刑廃止の理由は? 死刑廃止論者の見解が、朝日朝刊( 2007-12-20 )に掲載されている。有名な法学者の見解だ。
 「人は人を殺す権利はない」
 なるほど、と思える。しかし、この論調は、自己矛盾を含む。なぜなら、これは実質的には、次のことを意味するからだ。
 「社会は殺人者を殺す権利はない。しかし殺人者は、その被害者を殺す権利をもつ」
 たとえば、サリンの麻原は被害者を殺すことができるが、被害者の遺族は麻原を殺すことができない。片方だけに、人を殺す権利を認めている。……これでは、自己矛盾だ。

 ま、「権利」という法律用語を持ち出すから、こういう馬鹿げたことが起こる。そもそも、人を殺すか否かは、法律で決める問題ではない。法学者の出番じゃないのだ。では、何の出番かといえば、「人間性」の出番だ。
 麻原が人を殺すのは、彼にそういう人間性(悪しき人間性)があるからだ。
 被害者の遺族が麻原に復讐したくなるのは、そういう人間性(愛や悲しみ)があるからだ。
 ここでは、人間性への理解が大事なのであって、「人を殺す権利があるか否か」とい法的なことは、関係がない。たとえば、法律で殺人を禁止しようが、殺人者はどっちみち人を殺す。法的権利なんか、どうでもいいのだ。非本質的。

 さて。本質をさらに探ろう。
 殺人者が被害者を殺すのは、予測もできないし、事後的にわかるだけだ。だから、これは制御できる変数ではない。
 一方、殺人者が見つかったあとで、これをどうするかは、制御できる変数だ。次の3通りが考えられる。
 この3通りがある。歴史的には、上から下へと、順々に進んできた。
 ところが、現在では、3番目が廃止されようとする。となると、残るは、1番目と2番目だ。
 1番目(放置 = 有期刑を含む)は、殺人者が罪を免れるわけだ。これは、遺族が許すならば、それでもいいだろう。
 しかし、遺族が許せなければ? 愛や悲しみがあまりにも強ければ? 現状では、3番目だが、それがなければ、2番目にするしかない。

 ここで、遺族は、「仇討ち」をすることになる。これを止める権利は、誰にもないだろう。法的に抑制することはできるかもしれないが、そんなことをすれば、その人は遺族にとっては「殺人者の共犯者」となるから、遺族に殺される危険性もある。ま、殺されても仕方ない、という気もする。(殺人犯の共犯者なんだから。犯人隠匿罪に相当する。)
 
 そこで、遺族に仇討ちの権利を認めるとして、遺族はどうやって殺すか? 
 ここで、私が最適の方法としてお勧めするのは、「銃殺」だ。例の兵器マニアのように、猟銃とレーザーポイントを使えば、たいていの人が狙いの殺人者を殺すことができるだろう。裁判所に乗り付けて、抵抗する人を排除した上で、殺人者を殺す。……これが、私としては、ベストの方法だと思う。
 とすれば、「死刑が廃止されたなら」という条件のもとでは、「銃器保有を自由化すること」つまり「銃器による殺人を容認すること」が、ベストだ、ということになる。

 さて。
 以上はいかにも暴論である。(冒頭で述べたとおり。)
 こういう意見を述べると、「そんなのはけしからん」と怒る人が多いはずだ。しかし、である。もし銃による殺人を認めなければ、どうなるか? かわりに、別の方法による殺人がなされるだろう。その方法は、たとえば、こうだ。
  ・ 爆弾による建物の破壊・爆破
  ・ 毒ガスによる殺害
  ・ 飲食物に毒を混ぜる
  ・ 人質を使って防護しながら、殺人者を何らかの手段で殺す
 いずれの方法も、巻き添えに合う部外者が出現する。それは、非常にまずい。特に、爆弾が主流になると思うが、爆弾というのは指向性がまったくなく、四方八方に爆発するから、無関係の人の巻き添えが多大になる。
 そういうのに比べれば、ピンポイントで特定の一人だけを殺せる「銃殺」というのは、とても倫理的なのだ。無関係の人を百人殺すことよりは、殺人者を一人だけ殺す方が、よほど倫理的である。

 というわけで、いわば次善の策として、「銃器の自由所有」を認めた方がいいだろう。「死刑廃止」のもとでは。……少なくとも、爆弾だらけ、というのよりはマシなのだから。

 なお、もう一つ、別のアイデアもある。それは、「サリンなどの大量殺害の自由化」だ。つまり、人を何万人殺しても、その人自体は殺されない、ということだ。つまり、死刑廃止。その場合、殺人者の命だけは救われるが、被害者の命は大量に失われる。
 ま、これは、アメリカやヨーロッパの発想だ。「自分たちはパレスチナ人を大量に殺すが、自分たち自身はただの一人も殺されたくない」という、殺人者の発想。
 だから彼らは、「テロ防止法」なんていう、馬鹿げた発想のもとで、相も変わらず、パレスチナで大量殺人を続ける。
 つまり、「死刑廃止」というのは、殺人者のための法制度なのだ。……これが私の言いたいこと。

 [ 付記1 ]
 死刑廃止論者は、通常、こう言う。
 「人間の生命こそ最も重要である。誰にもそれを奪う権利はない」
 いかにもきれいごとだ。だが、これは、「自分たちだけは人殺しをしたい、だけども自分たちは罰されたくない」という、殺人者のエゴにすぎない。(ユダヤ人の理屈。)
 私としては、むしろ、こう語りたい。
 「人間には、命よりも大切なものがある。それは、愛や悲しみだ」
 愛する妻や子供を失った男にとっては、自分の命よりも大切なものがある。家族を奪った殺人者の命を奪うことだ。そうしてこそ、彼の心はやすらぐ。
 その彼の心を安らげるために、「宗教的な平穏で」などと思う人もいるが、どんな他人も、彼にそれを強いることができない。もし他人が彼に何かを語りたければ、他人もまたおのれの家族を殺されねばならない。
 死刑廃止を語る資格がある人は、自らの最愛の人を失った人だけだ。
 朝日新聞はしばしば「死刑廃止を」と唱える。ならば、そう唱える人は、自らの家族を殺人者に奪われるべきだ。そのとき初めて、彼は何かを語る権利がある。自分では何も失わないまま、死刑廃止だけを唱えるのは、払うべき代価を払わずに語っているのであって、一種の無銭飲食のようなものだ。それ自体が犯罪的である。
 つまりは、「死刑廃止論」というのは、「犯罪者による犯罪者擁護」にすぎない。一種のエゴイズムであり、自己弁護にすぎない。……そこにいくらきれいな人道的な心があるように見えても、そこには汚いエゴイズムがあるだけだ。
 「自分は何も失わないでいる。ただし、他人が最愛のものを奪われるのを、放置する」
 こういうエゴイズムが底にある。もし違うというのならば、その人は、人を真に愛し、その愛の頂点で、最愛の人をサリンで殺されるべきだ。そのとき初めて、「殺人者を心から許せます」という言葉を語る資格ができる。(ま、無理でしょうけどね。なぜなら、人間は、生物であるからだ。)

 [ 付記2 ]
 死刑廃止とは、究極的には、「理性か愛情か」という問題だろう。
 死刑廃止論者はしばしば「理性的であれ」と語る。なるほど、理性的であれば、(殺人者を殺しても、死者がよみがえるわけではないから)殺人者を殺すべきではあるまい。特に、損得勘定で言えば、殺人者を殺しても一円の得にもならない。合理性で考えるなら、殺人者のことなんかほったらかして、金儲けに勤しめばいい。それが利己主義の方針だ。古典派経済学者ならば、この道を勧めるだろう。
 しかし被害者の遺族は違う。彼には悲しみがある。その悲しみは、理性や合理性を越えたものだ。「理性的であれ」「合理的であれ」と叫ぶことは、「悲しみをなくせ」ということであり、「人間性を喪失せよ」「機械になれ」「金儲けのマシンになれ」ということだ。あまりにも索漠としている。なぜなら、「悲しみ」は「愛」の裏返しのものだからだ。「悲しみをなくせ」というのは、「愛をなくせ」というのに等しい。悲しみとは、愛するものを失ったことの感情だ。彼が被害者を愛する量が多ければ多いほど、悲しみも増す。彼が妻子を愛していなかったのなら、妻子を失っても、そのまま金儲けにいそしめばいい。しかし、彼が妻子を自分以上に愛していたのならば、妻子を失ったことの悲しみは、自分の命を失うことよりもつらい。ならば、自分の命を犠牲にしても、仇討ちをするだろう。仇討ちをするか否かは、愛情の強さに比例する。その彼に対して、「理性的になれ」と叫ぶことは、「愛情をなくせ」ということであり、彼に「死ね」と命じるのも同じことだ。とすれば、「理性的であれ」と命じることは、殺人にも匹敵する罪を犯していることになる。
 私の結論を言おう。死刑廃止をするか否かは、遺族にだけに権限がある。遺族が死刑を望まなければ、死刑をしなければいい。遺族が死刑を望めば、死刑をするか、仇討ちを認めるか、どちらかしかない。……そして、遺族以外の誰もが、何も語る資格はないのだ。もし語れば、その人は、殺人にも匹敵する罪を犯していることになる。
 「語る資格のないものは語るな」「言葉で殺人同等の罪を犯すな」
 それが私の言いたいことだ。

 【 注記 】
 なお、繰り返し書くが、本項は「暴論」である。「人を殺す自由を認めよ」というふうに述べているわけではない。「人を殺す自由を認めよ」というふうに述べているのは、私じゃなくて、死刑廃止論者の方だ、と指摘したいわけだ。
 私としては、どっちにせよ、人殺しなんかしたくない。また、妻子を殺されたくもないし、殺されたあとで復讐したいわけでもない。平凡につつがなく生きるのが一番。
 ただ、私は、妻子を殺された人々の悲しみが理解できる。死刑廃止論者は、(建前だけの空理空論にとらわれて)彼らの悲しみを理解できない。……そこだけが違う。

 [ 参考 ]
 生物としての人間は、自己や家族を殺す敵を、許すことができない。なぜなら、そのような生物は、自己保存能力が低いがゆえに、さっさと淘汰されてしまうからだ。
 「家族をいくら殺されても抵抗しません」
 「家族をいくら殺されたら殺し返す」
 という二通りのグループとがあったとしよう。その両者が共存すれば、前者は淘汰されてしまう。この世に存在できない。逆に言えば、この世に存在している生物は、後者の性質をもつ。
( ※ ESS理論における「ブルジョア戦略」である。たとえば、鳥や虎は、自分のテリトリーを厳守する。敵が近づいたら、必ず撃退する。)
( ※ 上記の二通りは、「タカとハト」ではない。「タカ」は「やたらと他人を殺す殺人者」だが、「ブルジョア戦略」は「やられたときだけやり返す」ということだ。……その意味で、「仇討ち」というのは、生物にとっては当然のことなのだ。それを否定するのは、人間性を無視した偽善者であろう。)


● ニュースと感想  (12月23日)

 「プロ野球の外人選手の年俸」について。
 プロ野球で、外人選手の年俸が高騰している。アレックス・ラミレスが2年10億円。グライシンガーや、クルーンも同様。カブレラみたいに何年も実績もある選手ならともかく、日本に来て、3年ぐらいの外国人選手が、馬鹿高い年俸をもらえる。
 なぜ? 外国人選手は、契約上、フリーエージェントと同様になるからだ。これに対して、「外国人選手はそういう契約なんだから仕方ない」と諦める論調が多いが、それは、「規則(など)がそうなっているから」だけのことだ。もちろん、そういう制度は簡単に変えることができる。だから、変えてしまえばいいのだ。

 この本質は? 「外国人選手だけがフリーエージェントになる」ということだ。その意味は、「外国人選手だけが大儲け」ということだが、実態は、「日本人選手の給料が抑制されて、その分、外国人選手の金が高騰する」ということだ。
 たとえば、阪神の藤川や久保田の年俸よりも、グライシンガーやクルーンの方が圧倒的に高額だ。これはどうしてかというと、日本人選手全体の年俸が抑制されて、その分、外国人選手に回るからだ。
 たとえば、阪神は、広島の新井には2億円ぐらいしか払わないのに、グライシンガーはその何倍も払おうとする。基準が異なっているわけだ。

 だから、本来ならば、日本人選手がストライキを打つべきだろう。「外国人選手と日本人選手で、フリーエージェントになれる期間を同じにせよ」と。「外国人が三年でなれるなら、日本人もそうせよ」と。
 実を言うと、現状がこうなっているのは、金持ちの巨人にばかり有利だからだ。で、各球団は、巨人に口出しできない。選手会の方も、へっぴりごしだ。
 で、結果的に、巨人は外交人選種を総ざらいし、その一方で、日本人選手は金を奪われる。……横暴な猫と、臆病なネズミたち。
 私が「鈴をつけよ」(ストを打て)と言っても、ネズミたちは臆病だから、無理ですかね。


● ニュースと感想  (12月23日b)

 「ふるさと納税」について。
 「ふるさと納税」という制度が提案されている。これはただのジョークかと思っていたら、とうとう実現の運びになるようだ。
「ふるさと納税」導入へ・自民税調、寄付優遇も拡充
 自民党税制調査会(津島雄二会長)は7日、2008年度税制改正で自治体や公益法人などに寄付した場合の個人住民税(地方税)の優遇措置を抜本的に見直す方針を固めた。生まれ故郷などの自治体に寄付した場合に税負担を減らす「ふるさと納税」の導入が柱で、08年分所得にかかる住民税から適用する。住民税の1割程度を限度に5000円を超える分を税額控除の対象とする。
( 2007-12-08 日経のサイト
 これは、少し前の記事だが、最近でも、続報がある。
都会と地方の格差を埋めると期待されている「ふるさと納税」。与党の税制改正大綱にこの制度が盛り込まれたのを受け、さっそく「わがまちに」と、呼びかけを始めるところが出てきた。対象となる事業のメニューを組んだり、ネットから申し込みができるようにしたりと「寄付獲得」に乗り出した。
 制度開始をにらみ、ホームページで一足早く寄付の「電子申請」を始めているのは福井県。9月下旬、「ふるさと福井応援サイト」をつくり、そこから5000円以上の寄付の申し込みを受け付けている。14日からは全国の自治体で初めて、クレジットカードで寄付する仕組みも始めた。使い道は特に限定しないが、寄付者から「子育てに使って」「お年寄りのサービスに」などの注文があった場合、そうした事業に振り向けるという。
( 2007-12-21 朝日のサイト
 ジョークがただのジョークならいいが、ジョークが現実になるというのは、困りものだ。そこで、どこがおかしいかを、指摘する。(漫才と現実の区別がつかない政治家向け。)
 まず、「地方と大都会との格差があるから、これを是正する」という理念はいい。しかし、理念がよくても、方法が不当であれば、正しくない。なぜならそれは「鼠小僧次郎吉」の論理だからだ。「正義のためには泥棒(という不法行為)をしてもいい」というふうな。……だから、理念はよくても、正しい方法を取ることが必要だ。
 さて。一方、大都会などの自治体側では、反対論もある。「住民税は、住民サービスに対応する負担金だから、応分に払ってもらう必要がある。ゆえに、地方と大都会との格差のために住民税を使うのは、理屈が通らない」
 これは、一見、もっともらしい。
 では、上記の二つの見解を知って、どう判断するか? 

 実は、この二つの見解は、どちらも正しいのだ。だから、その双方をともに実現する方法を取ればよい。すなわち、次の二点だ。
  ・ 地方と大都会の税収格差を是正する
  ・ 住民税は、住民サービスに応じた負担とする。(格差是正のためには使わない。)

 では、そんなことは、可能か? 可能だ。次のようにすればいい。
 「高齢者は、住民サービスを受けているのにもかかわらず、住民税をろくに払っていない。なぜなら、所得が少ないからだ。そこで、高齢者の分を、その子の世代の所得から払えばいい」
 これはつまり、「家族単位の納税」という発想だ。なぜなら、現状では、次のようになっているからだ。
 「息子や娘の世代は、大都会に出て、高額の所得を得ている。その金で、大都会に高額の納税をしている。一方、親の世代は、ろくに所得がない。そのせいで、地方にいる親は、ろくに納税をしていない」
 「結果的に、家族単位で見た場合、大都会の自治体ばかりが高額の住民税収入を得て、地方の自治体ばかりが割を食う。地方の自治体は、税収は少ないのに、高齢者のための福祉の支出は多い。まったく割を食っている」

 要するに、国全体で見ると、大都会の自治体は、おいしいところばかりをつまみ食いして、地方自治体にまずいところを押しつけている。で、自分ばかりがウハウハと喜んでいるわけだ。
 これは、国全体の税政策としては、きわめて歪んだ税政策だ。ゆえに、それを是正するべきだろう。たとえば、次のように。
 「息子の世代の納税は、本人の居住地と、親の居住地との、双方で住民税を払う」
 こういうことをやれば、問題は一挙に解決する。
 要するに、こうだ。
 「現状では、問題があるから、ふるさと納税という追加措置で、問題を是正すればいいのではない。もともと問題が起こらないようにすればいいのだ。もともと歪みが生じるようになっているのだから、もともと歪みが生じないようにすればいいのだ。対症療法ではなく、根源対策」

 [ 付記 ]
 なお、ついでに一言。
 「息子の納税を、親の居住地の自治体に納税する」
 というのは、一人一人を個別に調査していたら、莫大な事務負担がかかる。いかにも、馬鹿馬鹿しい。(そのばかばかしさは、ふるさと納税でも同様である。)
 じつは、こんな調査は、まったく不要である。国民の年齢と所得については、国家がすべて把握しているのだから、その統計的なデータは県単位で簡単に出る。とすれば、県単位で、「この県では息子世代が多く、この県では親の世代が多い」というふうに、簡単にデータが出る。だから、そのデータに従って、住民税のやりとりをすればいい。……ま、データさえあれば、あとはパソコンで簡単に結果はわかる。(電卓の方が早いかも。)
 要するに、「ふるさと納税をする」というふうに、日本中の国民が大騒ぎしたり、自治体が「こっちに納税して」などと大騒ぎしなくても、まともな知恵さえあれば、自然に最適配分はできる、ということ。
 ふるさと納税というのは、要するに、莫大な納税コストをかけて無駄をやる、という馬鹿騒ぎの見本。税金を集めるために税金を使う、というふうな。……私にはジョークとしか思えないんだが、これを本気でやる国民というのは、頭がどうかしているのではないのかな? 

  【 追記 】
 「現在の政治制度には問題がある。だから一人一人の個人の作業で是正してもらおう」
 というのが、今回の発想だ。しかし、そんな発想をするのであれば、そもそも政府とか国家とかいうものは必要ない。教育でも医療でも警察でも、一人一人が自分でやればいい、ということになる。それはもはや、近代社会ではなくて、前近代社会または原始社会である。……誇張して言えば、「猿の社会」だ。
 要するに、「ふるさと納税」なんていうのを発想したのは、「猿並みの知恵しか持っていない」ということの証明である。誰が? もちろん、政治家が。そしてまた、それを指摘できないマスコミや国民のすべてが。
 日本はいつのまにか「猿の惑星」ならぬ「猿の国家」になっていたようだ。外国から見たらお笑いだろう。








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「泉の波立ち」
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